ルネサンス:激動の欧州と知を覚醒させた歴史的転換

ルネサンス:激動の欧州と知を覚醒させた歴史的転換

主な出来事

ルネサンスの開花背景には複数の歴史的大事件がありました。コンスタンティノープル陥落に伴う亡命学者によるビザンツ・古代ギリシャ文献の流入や、十字軍遠征・地中海貿易の活発化によるイタリア都市国家の富裕化が基盤を形成。さらに黒死病の流行による伝統的カトリック教会史観の揺らぎと人間性への再注目、グーテンベルクの活版印刷術による知識爆発が相互に作用し、中世から近代へとヨーロッパの価値観を根本から変革しました。

年表

要素
西暦 年齢
1452年
クラクフ大学への入学(マルチン・ビリツァ, 時期: 1452年)
1456年
クラクフ大学での学位取得(マルチン・ビリツァ, 時期: 1456年~1459年)
1460年
アンドレア・デル・ヴェロッキオの工房への弟子入り(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1460年代後半~1470年代)
1463年
ボローニャ大学での天文学講義(マルチン・ビリツァ, 時期: 1463年)
1464年
レギオモンタヌスとの出会いと共同研究(マルチン・ビリツァ, 時期: 1464年頃)
ローマでの宮廷占星術師としての活動 (時期: 1464年頃)
レギオモンタヌスとの天文学表の作成 (時期: 1464年~1467年頃)
1467年
プレシュブルクの大学への参加 (時期: 1467年頃)
エステルゴム天文台での研究 (時期: 1467年頃)
1468年
マーチャーシュ1世の宮廷占星術師への任命(マルチン・ビリツァ, 時期: 1468年)
1468年の彗星に関する占星術的判断(マルチン・ビリツァ, 時期: 1468年)
マーチャーシュ1世の宮廷天文学者・占星術師となる(マルチン・ビリツァ, 時期: 1468年)
1470年
ブダの天文観測施設での活動(マルチン・ビリツァ, 時期: 1470年代~1480年代)
1472年
画家組合への登録(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1472年)
「受胎告知」の制作 (時期: 1472年~1475年頃)
1476年
同性愛行為の告発事件 (時期: 1476年4月~6月)
1477年
ハプスブルク家のブルゴーニュ進出 (時期: 1477年~1482年)
1479年
ギネガテの戦い (時期: 1479年8月7日)
1480年
巨大な騎馬像計画 (時期: 1480年代~1490年代)
金細工職人としての修業(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1480年代前半~1486年頃)
父ハンス・マラーからの絵画教育(ルーカス・マラー, 時期: 1480年代~1490年代)
大型天球儀の制作・収集 (時期: 1480年)
1481年
「東方三博士の礼拝」の制作依頼(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1481年)
1482年
ケンブリッジ大学への入学(ジョン・フィッシャー, 時期: 1482年~1484年頃)
ミラノへの移住とスフォルツァ家への奉仕(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1482年~1499年)
ネーデルラント反乱の鎮圧 (時期: 1482年~1492年)
1483年
「岩窟の聖母」の制作 (時期: 1483年~1480年代末頃)
1485年
王位獲得とテューダー朝の成立 (時期: 1485年8月)
ボズワース・フィールドの戦い (時期: 1485年8月22日)
ヘンリー7世の戴冠 (時期: 1485年10月30日)
1486年
サフォーク兄弟の反乱 (時期: 1486年)
ミヒャエル・ヴォルゲムートの工房への弟子入り(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1486年~1489年)
ヴォルゲムート工房での修業(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1486年~1489年)
大型アストロラーベの取得(マルチン・ビリツァ, 時期: 1486年)
1487年
ケンブリッジ大学学士号取得(ジョン・フィッシャー, 時期: 1487年)
ストーク・フィールドの戦い (時期: 1487年6月16日)
1488年
ブルージュでの拘束(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1488年1月~5月頃)
1489年
メディナ・デル・カンポ条約 (時期: 1489年)
レドン条約 (時期: 1489年2月)
1490年
チロル・ハプスブルク家領の統合 (時期: 1490年代)
軍制・ランツクネヒトの発展 (時期: 1490年代~1510年代)
芸術・文学の保護 (時期: 1490年代~1519年)
遍歴職人としての旅行(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1490年~1494年)
父ハンス・ホルバインからの絵画教育 (時期: 1490年代~1510年代前半)
マーチャーシュ1世死去後の活動 (時期: 1490年以降)
1491年
パーキン・ウォーベックの反乱 (時期: 1491年~1499年)
プレスブルク条約 (時期: 1491年)
司祭への叙階 (時期: 1491年12月17日)
1492年
オックスフォード大学での学習(トマス・モア, 時期: 1492年~1494年頃)
マルティン・ショーンガウアーとの関係を求めた旅(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1492年頃)
1493年
クラクフ大学への天文学資料の遺贈(マルチン・ビリツァ, 時期: 1493年頃~1494年)
父フリードリヒ3世の死去と単独統治開始 (時期: 1493年8月19日)
1494年
イタリア遠征とフランスとの対立 (時期: 1494年~1498年)
ヴェネツィアへの第一次イタリア旅行(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1494年秋~1495年初頭)
1495年
最後の晩餐の制作 (時期: 1495年~1498年)
「最後の晩餐」の完成 (時期: 1495年~1498年)
ヴォルムス帝国議会と帝国改革 (時期: 1495年)
息子フィリップとスペイン王家の婚姻政策 (時期: 1495年~1496年)
帝国改革の推進 (時期: 1495年~1512年)
ニュルンベルクでの工房開設(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1495年頃~)
1496年
マグヌス・インテルクルス (時期: 1496年)
リンカーン法曹院での法律修学(トマス・モア, 時期: 1496年~1502年)
ボローニャ大学での研究(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1496年~1500年頃)
ハプスブルク家の婚姻政策の展開 (時期: 1496年~1515年)
ハプスブルク家のスペインとの結びつき (時期: 1496年以降)
ジョン・カボットへの航海特許 (時期: 1496年3月)
1497年
マーガレット・ボーフォートの聴罪司祭就任(ジョン・フィッシャー, 時期: 1497年頃)
ヴァルミア聖堂参事会員への就任(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1497年~1501年)
1498年
『黙示録』木版画集の出版 (時期: 1498年)
1499年
フランス軍によるミラノ占領 (時期: 1499年)
ハイデルベルクでの人文学・神学研究(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1499年~1503年頃)
1500年
聖ヨハネズ・カレッジ設立への貢献(ジョン・フィッシャー, 時期: 1500年代初頭~1516年)
ケンブリッジ大学での学業(ヒュー・ラティマー, 時期: 1500年代初頭~1510年代)
ローマでの数学・天文学の講義(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1500年)
ヴェネツィアでの軍事技術相談 (時期: 1500年頃)
『白王』など自伝的作品の制作 (時期: 1500年代~1519年)
自画像「28歳の自画像」の制作 (時期: 1500年)
1501年
パドヴァ大学での医学・法律研究(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1501年~1503年頃)
エアフルト大学での学業(マルティン・ルター, 時期: 1501年~1505年)
神学博士号取得とケンブリッジ大学副学長就任(ジョン・フィッシャー, 時期: 1501年7月)
1502年
チェーザレ・ボルジア軍への参加 (時期: 1502年~1503年)
チェーザレ・ボルジアの軍事技師就任(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1502年~1503年)
ヴィッテンベルク大学での研究(ゲオルク・シュペラティン, 時期: 1502年~1503年)
ウィーン滞在と芸術活動(ルーカス・マラー, 時期: 1502年~1504年頃)
ウィーンでの初期作品制作(ルーカス・マラー, 時期: 1502年~1504年頃)
アーサー王太子の死 (時期: 1502年4月2日)
1503年
ケンブリッジ大学での学問活動 (時期: 1503年頃~1527年)
フロンボルクへの帰還(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1503年)
アンギアーリの戦いの壁画制作(レオナルド・ディ・セル・ピエロ・ダ・ヴィンチ, 時期: 1503年~1506年頃)
「モナ・リザ」の制作開始 (時期: 1503年頃)
アルノ川運河計画 (時期: 1503年~1504年頃)
エリザベス・オブ・ヨークの死 (時期: 1503年2月11日)
1504年
議会議員への初当選(トマス・モア, 時期: 1504年)
ケンブリッジ大学総長としての活動(ジョン・フィッシャー, 時期: 1504年~1514年、その後終身職)
ザクセン選帝侯宮廷画家への就任(ルーカス・マラー, 時期: 1504年~1505年)
ザクセン宮廷画家としての活動開始(ルーカス・マラー, 時期: 1504年~1505年)
ロチェスター司教就任(ジョン・フィッシャー, 時期: 1504年10月~1535年)
1505年
ケンブリッジ大学クイーンズ・カレッジ学長(ジョン・フィッシャー, 時期: 1505年~1508年)
アウグスティノ会修道士となる(マルティン・ルター, 時期: 1505年)
ヴィッテンベルク大学での活動開始(アンドレアス・カールシュタット, 時期: 1505年頃)
第二次イタリア旅行(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1505年~1507年)
レーゲンスブルク市民権の取得(アルブレヒト・アルトドルファー, 時期: 1505年)
1506年
ドミニコ会への入会(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1506年頃)
ミラノへの再移住(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1506年~1513年)
ブルゴーニュ・ハプスブルク家の継承 (時期: 1506年~1515年)
ライプツィヒ大学への入学(トーマス・ミュンツァー, 時期: 1506年)
『聖カタリナの殉教』の制作 (時期: 1506年)
初期の署名作品の制作 (時期: 1506年頃)
父フィリップ美公の死去 (時期: 1506年9月25日)
1508年
皇帝称号の新しい慣行 (時期: 1508年)
ヨハン・フリードリヒの教育係就任(ゲオルク・シュペラティン, 時期: 1508年頃)
紋章授与と翼のある蛇の印の使用 (時期: 1508年)
マルガレーテ・フォン・エスターライヒの宮廷訪問 (時期: 1508年)
トレントでの皇帝宣言 (時期: 1508年2月4日)
カンブレー同盟の結成 (時期: 1508年12月10日)
1509年
ハイデルベルク大学での学業(フィリップ・シュヴァルツェルデ, 時期: 1509年~1512年頃)
フリードリヒ3世の秘書・相談役としての活動 (時期: 1509年頃~1525年)
王位継承と即位(ヘンリー・テューダー, 時期: 1509年4月22日)
1510年
ロンドン市の下級保安官就任(トマス・モア, 時期: 1510年~1518年)
エラスムスのケンブリッジ滞在を支援 (時期: 1510年代)
地動説の「コメンタリオルス」の成立 (時期: 1510年代前半頃)
「コメンタリオルス」の執筆 (時期: 1510年~1514年頃)
ヴァルミア地方の行政・外交活動(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1510年代~1530年代)
ローマ旅行(マルティン・ルター, 時期: 1510年~1511年頃)
神学博士号取得(アンドレアス・カールシュタット, 時期: 1510年)
『ザクセン人とテューリンゲン人の年代記』の刊行 (時期: 1510年頃)
ヴィッテンベルクでの工房拡大 (時期: 1510年代~1520年代)
1511年
アルプスへの旅行と風景への関心(アルブレヒト・アルトドルファー, 時期: 1511年頃またはそれ以前)
1512年
『リチャード三世史』の執筆(トマス・モア, 時期: 1512年~1519年頃)
第5ラテラン公会議への代表候補(ジョン・フィッシャー, 時期: 1512年)
ヴィッテンベルク大学で神学教授となる(マルティン・ルター, 時期: 1512年頃)
テュービンゲン大学での研究(フィリップ・シュヴァルツェルデ, 時期: 1512年~1518年)
フランクフルト・アン・デア・オーダー大学での研究(トーマス・ミュンツァー, 時期: 1512年~1513年頃)
マクシミリアン1世の庇護(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1512年~1519年)
ルターの神学博士号取得への関与(アンドレアス・カールシュタット, 時期: 1512年10月19日頃)
1513年
司祭への叙階(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1513年~1514年頃)
ローマ滞在(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1513年~1516年)
三大銅版画の制作 (時期: 1513年~1514年)
皇帝マクシミリアン1世の宮廷からの注文(アルブレヒト・アルトドルファー, 時期: 1513年頃以降)
スパーズの戦い (時期: 1513年8月16日)
フロドゥンの戦い (時期: 1513年9月9日)
1514年
ヘンリー8世の外交・宮廷活動への参加(トマス・モア, 時期: 1514年~1521年)
リヨンの石工・建築家の家に生まれる (時期: 1514年)
1515年
金細工師への弟子入り(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1515年頃)
1515年のハプスブルク・ヤギェウォ家婚姻協定 (時期: 1515年)
1515年ウィーン二重婚姻協定 (時期: 1515年)
ウィーン二重結婚(フェルディナント・フォン・ハプスブルク, 時期: 1515年)
ローマ滞在と1516年の神学論題 (時期: 1515年~1516年頃)
エラスムスのギリシャ語新約聖書校訂への協力 (時期: 1515年頃~1516年)
バーゼル大聖堂説教師への就任(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1515年)
バーゼルへの移住(ハンス・ホルバイン, 時期: 1515年頃)
ネーデルラント統治者としての成人宣言 (時期: 1515年1月5日)
1516年
『ユートピア』の出版 (時期: 1516年)
フランス王フランソワ1世への仕官(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1516年~1519年)
フィレンツェ追放事件 (時期: 1516年)
シエーナでの修業(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1516年)
最後のイタリア遠征 (時期: 1516年)
スペイン王国の継承(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1516年)
スペイン王位の継承(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1516年1月~3月)
1516年の156論題 (時期: 1516年9月16日)
1517年
ケンブリッジ大学での研究(ウィリアム・ティンダル, 時期: 1517年~1521年)
貨幣改革に関する研究(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1517年~1526年頃)
マルティン・ルターとの接近(トーマス・ミュンツァー, 時期: 1517年~1520年頃)
ルツェルンでの壁画制作 (時期: 1517年頃)
マルティン・ルターとの関係形成 (時期: 1517年以降)
レーゲンスブルク外務評議会への参加(アルブレヒト・アルトドルファー, 時期: 1517年~1519年頃)
95か条の論題の公表 (時期: 1517年10月31日)
1518年
アウクスブルク帝国議会での審問(マルティン・ルター, 時期: 1518年)
ヴィッテンベルク大学での教授就任(フィリップ・メランヒトン, 時期: 1518年)
ルターの宗教改革思想への接近 (時期: 1518年~1519年頃)
神学博士号の取得(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1518年)
ルターの宗教改革への接近(ゲオルク・シュペラティン, 時期: 1518年頃~1521年)
ルターとフリードリヒ3世の仲介 (時期: 1518年~1521年頃)
アウクスブルク帝国議会への参加(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1518年)
ハイデルベルク討論(マルティン・ブツァー, 時期: 1518年4月26日)
ヴィッテンベルク大学での就任講演(フィリップ・メランヒトン, 時期: 1518年8月25日頃)
1519年
ローマへの移住(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1519年頃)
神聖ローマ皇帝への選出(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1519年)
アメリカ大陸でのスペイン帝国拡大 (時期: 1519年~1540年代)
フランス王フランソワ1世との対立 (時期: 1519年~1557年)
マクシミリアン1世の死去と年金継続問題 (時期: 1519年~1520年)
バーゼル画家ギルドへの加入と市民権取得(ハンス・ホルバイン, 時期: 1519年)
ヴィッテンベルク市参事会員への就任(ルーカス・マラー, 時期: 1519年~1544年頃)
レーゲンスブルクにおけるユダヤ人追放とシナゴーグ破壊 (時期: 1519年)
ヴェルスでの死去(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1519年1月12日)
遺言の作成(レオナルド・ダ・ヴィンチ, 時期: 1519年4月23日)
神聖ローマ皇帝選挙(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1519年6月28日)
ライプツィヒ討論 (時期: 1519年7月)
1520年
ティンダルとトマス・モアの論争 (時期: 1520年代後半~1530年代初頭)
宗教改革への反論活動(トマス・モア, 時期: 1520年代~1530年代)
トマス・ビルニーとの出会いと宗教改革への転向(ヒュー・ラティマー, 時期: 1520年代前半)
枢機卿ウルジーによる審問 (時期: 1520年代)
ブリストル説教論争 (時期: 1520年代後半)
宗教改革派への転向(ヒュー・ラティマー, 時期: 1520年代前半)
オルシュティン城の防衛 (時期: 1520年)
オルシュティン城の防衛準備 (時期: 1520年)
ルーヴェンでの教育(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1520年代~1533年頃)
教皇クレメンス7世への奉仕(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1520年代)
コムネロスの反乱 (時期: 1520年~1521年)
ヴィッテンベルクの教育改革 (時期: 1520年代~1540年代)
ツヴィッカウでの宗教改革運動 (時期: 1520年~1521年)
ツヴィッカウでの説教者就任(トーマス・ミュンツァー, 時期: 1520年~1521年)
ツヴィングリとの改革派神学の形成(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1520年代)
フリードリヒ3世の伝記・宗教改革史料の執筆 (時期: 1520年代~1540年代)
マルティン・ルターへの関心の高まり(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1520年代)
ネーデルラント旅行とカール5世への年金確認(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1520年~1521年)
バーゼル宗教改革による制作環境の変化 (時期: 1520年代前半)
バーゼル市庁舎などの壁画制作 (時期: 1520年代前半)
『死の舞踏』木版画制作 (時期: 1520年代)
薬局経営特権の取得(ルーカス・マラー, 時期: 1520年)
ルターの肖像制作 (時期: 1520年代~1540年代)
『キリストと姦淫の女』など宗教改革期の宗教画制作 (時期: 1520年代~1530年代)
エラスムスの蔵書購入(ヤン・ワスキ, 時期: 1520年代~1536年)
金襴の陣 (時期: 1520年6月)
教皇勅書「Exsurge Domine」による断罪 (時期: 1520年6月15日)
ネーデルラント旅行(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1520年7月~1521年7月)
アーヘンでの戴冠(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1520年10月23日)
1521年
ジョン・ウォルシュ家での聖職・家庭教師活動(ウィリアム・ティンダル, 時期: 1521年頃)
ルター派への反論 (時期: 1521年~1526年頃)
石工としての徒弟修業(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1521年頃~1524年)
ルター派宗教改革への対応 (時期: 1521年~1555年)
オーストリア大公領の統治開始 (時期: 1521年~1522年)
ドイツ語新約聖書の翻訳 (時期: 1521年~1522年)
『ロキ・コンムネス』の刊行 (時期: 1521年)
ルターのヴァルトブルク滞在中の活動 (時期: 1521年~1522年)
カールシュタットの破門 (時期: 1521年)
プラハでの宗教改革活動と「プラハ宣言」 (時期: 1521年)
プラハへの移動(トーマス・ミュンツァー, 時期: 1521年)
ドミニコ会の修道誓願からの離脱(マルティン・ブツァー, 時期: 1521年)
ルターのヴォルムス帝国議会出席をめぐる活動 (時期: 1521年)
ヴィッテンベルクの宗教改革をめぐる調整 (時期: 1521年~1522年)
ルターの破門 (時期: 1521年1月3日)
ヴォルムス帝国議会への随行(マルティン・ブツァー, 時期: 1521年4月)
ヴォルムス帝国議会とルターとの対面 (時期: 1521年4月17日~26日)
ヴォルムス帝国議会(マルティン・ルター, 時期: 1521年4月17日~18日)
ヴァルトブルク城での潜伏(マルティン・ルター, 時期: 1521年5月~1522年3月頃)
ルターのヴァルトブルク城への保護移送 (時期: 1521年5月)
ヴィッテンベルクでの改革派聖餐式 (時期: 1521年12月25日)
1522年
大学説教師・大学付き聖職者への任命(ヒュー・ラティマー, 時期: 1522年)
ルターとの対立(アンドレアス・ルドルフ・ボーデンシュタイン・フォン・カールシュタット, 時期: 1522年~1524年)
ヴァイセンブルクでの宗教改革活動と破門(マルティン・ブツァー, 時期: 1522年~1523年)
ランシュトゥールでの牧師活動(マルティン・ブツァー, 時期: 1522年)
エーベルンブルクでの宗教改革活動 (時期: 1522年)
バーゼルでの宗教改革運動(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1522年~1529年)
エーベルンブルクでの牧師活動(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1522年)
ヴィッテンベルク聖像破壊運動 (時期: 1522年1月~2月頃)
ヴィッテンベルクへの帰還(マルティン・ルター, 時期: 1522年3月)
1523年
英語聖書翻訳計画 (時期: 1523年~1524年)
ロンドンでの聖書翻訳活動(ウィリアム・ティンダル, 時期: 1523年~1524年)
庶民院議長就任(トマス・モア, 時期: 1523年)
『ルターの主張への反駁』出版 (時期: 1523年)
オルラミュンデでの宗教改革 (時期: 1523年~1524年)
アルシュテットでの宗教改革 (時期: 1523年~1524年)
アルシュテットでの礼拝改革 (時期: 1523年~1524年)
ストラスブールでの宗教改革開始(マルティン・ブツァー, 時期: 1523年~1524年)
ストラスブール宗教改革の指導(マルティン・ブツァー, 時期: 1523年~1548年)
バーゼル大学での聖書講義(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1523年以降)
エラスムスの肖像制作 (時期: 1523年頃)
キリスト教出版活動 (時期: 1523年~1525年頃)
バーゼルでエラスムスと親交を深める(ヤン・ワスキ, 時期: 1523年頃~)
石工工房からの逃亡(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1523年4月)
1524年
大陸ヨーロッパへの亡命(ウィリアム・ティンダル, 時期: 1524年)
ジョヴァンニ・ディ・ジャコモ・ダ・ポルレッツァの工房への加入 (時期: 1524年)
ヴィチェンツァへの移住(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1524年)
聖餐論争 (時期: 1524年~1525年頃)
アルシュテット同盟の形成 (時期: 1524年頃)
マラーラッハ巡礼礼拝堂の焼き討ち (時期: 1524年春頃)
ミュールハウゼンでの権力闘争 (時期: 1524年~1525年)
印刷所の設立 (時期: 1524年)
「抗議あるいは抗議の申し立て」の公表 (時期: 1524年)
ニュルンベルク帝国議会への同行 (時期: 1524年)
君侯説教 (時期: 1524年7月13日)
ルターによるオルラミュンデ訪問 (時期: 1524年8月~9月頃)
アルシュテットからの逃亡(トーマス・ミュンツァー, 時期: 1524年8月)
ザクセンからの追放(アンドレアス・カールシュタット, 時期: 1524年9月)
『偽りの信仰を生み出す世界への激しい暴露』の刊行 (時期: 1524年10月)
1525年
ティンダル新約聖書の刊行 (時期: 1525年~1526年)
1525年スティールヤードのハンザ商人への捜索 (時期: 1525年)
ランカスター公領大臣就任(トマス・モア, 時期: 1525年~1529年)
ルターによる一時的な保護 (時期: 1525年頃)
アルテンブルクでの牧師就任(ゲオルク・シュペラティン, 時期: 1525年)
『測定についての教本』の刊行 (時期: 1525年)
ミュールハウゼンでの農民・市民運動指導 (時期: 1525年2月~5月)
パヴィアの戦い (時期: 1525年2月24日)
ミュンツァーの逮捕 (時期: 1525年5月15日)
フランケンハウゼンの戦いと敗北 (時期: 1525年5月15日)
尋問・拷問(トーマス・ミュンツァー, 時期: 1525年5月15日~27日)
ミュンツァーの処刑 (時期: 1525年5月27日)
1526年
オスマン帝国への対抗 (時期: 1526年~1555年頃)
ハプスブルク家の婚姻政策 (時期: 1526年~1548年)
ボヘミア・ハンガリー王位の獲得(フェルディナント・フォン・ハプスブルク, 時期: 1526年~1527年)
『四人の使徒』の制作・寄贈 (時期: 1526年)
トマス・モアとの出会い (時期: 1526年)
第一次イングランド滞在(ハンス・ホルバイン, 時期: 1526年~1528年)
レーゲンスブルク市内の建築事業への関与 (時期: 1526年~1527年頃)
セント・ポール大聖堂前でのルター批判説教(ジョン・フィッシャー, 時期: 1526年2月11日頃)
バーデン討論(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1526年5月21日~6月8日)
モハーチの戦い (時期: 1526年8月29日)
英語新約聖書の焚書 (時期: 1526年10月)
ボヘミア王選出 (時期: 1526年10月24日)
ハンガリー王選出と戴冠(フェルディナント・フォン・ハプスブルク, 時期: 1526年12月~1527年11月)
1527年
ローマ教皇との離婚問題と国教会成立 (時期: 1527年~1534年)
ヘンリー8世の婚姻無効問題 (時期: 1527年頃~1533年)
ヘンリー8世への外交・宗教問題への協力 (時期: 1527年~1532年)
キャサリン・オブ・アラゴンの婚姻擁護 (時期: 1527年~1530年頃)
共同生活兄弟会での教育(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1527年~1530年)
ローマ略奪での防衛戦 (時期: 1527年)
ザクセン教会の宗教改革・教会巡察 (時期: 1527年~1542年頃)
ザクセン福音派教会の組織化(ゲオルク・シュペラティン, 時期: 1527年~1542年頃)
『都市の要塞化論』の刊行 (時期: 1527年)
『トマス・モアとその家族』関連作品の制作 (時期: 1527年頃)
父の工房での修業開始(ルーカス・ズンダー, 時期: 1527年~1529年頃)
ローマ略奪への参加(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1527年5月)
ローマ略奪 (時期: 1527年5月6日以降)
1528年
『キリスト者の服従』の出版 (時期: 1528年)
『人体比例論』の完成と死去(アルブレヒト・デューラー, 時期: 1528年)
バーゼルへの帰還 (時期: 1528年~1532年頃)
『アレクサンダー大王の戦い』の制作 (時期: 1528年~1529年)
ベルン討論への参加(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1528年1月)
レーゲンスブルク市長就任の辞退(アルブレヒト・アルトドルファー, 時期: 1528年9月15日)
1529年
トマス・モアとウィリアム・ティンダルの論争 (時期: 1529年~1532年)
国王の教会支配への抵抗 (時期: 1529年~1531年)
キャサリン・オブ・アラゴンの弁護(ジョン・フィッシャー, 時期: 1529年~1530年)
ヘンリー8世による教会統制への反対 (時期: 1529年~1531年)
兄弟の仇討ちによる殺人(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1529年)
小教理問答書の執筆(マルティン・ルター, 時期: 1529年)
シュパイヤー帝国議会とプロテスタント運動 (時期: 1529年)
スイスへの移住とツヴィングリとの交流(アンドレアス・カールシュタット, 時期: 1529年~1530年代)
バーゼルのミサ廃止と宗教改革の制度化 (時期: 1529年)
バーゼル改革派教会のアンティステス就任(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1529年)
レーゲンスブルク市壁の防備強化 (時期: 1529年~1530年)
ウィーン包囲 (時期: 1529年9月~10月)
大法官就任(トマス・モア, 時期: 1529年10月~1532年5月)
マールブルク宗教会談(フィリップ・シュヴァルツェルデ, 時期: 1529年10月)
1530年
イングランド宗教改革 (時期: 1530年代~1540年代)
英語による礼拝改革 (時期: 1530年代~1540年代)
ヘンリー8世の婚姻無効への反対 (時期: 1530年)
五書の英訳 (時期: 1530年)
改革派説教者としての活動(ヒュー・ラティマー, 時期: 1530年代後半)
ガレノス解剖学との対立 (時期: 1530年代~1540年代)
ルーヴェン大学での学習(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1530年~1532年頃)
ジャン・ジョルジョ・トリッシーノとの出会い(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1530年代後半)
トリッシーノによる教育(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1530年代後半~1540年代)
ジャン・デュ・ベレー枢機卿との関係形成 (時期: 1530年代後半~1540年代)
法律・数学・建築の学習(ピエール・レスコ, 時期: 1530年代~1540年代)
アウクスブルク帝国議会 (時期: 1530年)
皇帝としてのボローニャ戴冠(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1530年)
アウクスブルク帝国議会とアウクスブルク信仰告白 (時期: 1530年)
アウクスブルク信仰告白の起草 (時期: 1530年)
『アウクスブルク信仰告白の弁証』の作成 (時期: 1530年~1531年)
『四都市信仰告白』の作成 (時期: 1530年)
プロテスタント諸派の統一運動 (時期: 1530年代)
ヘンリー8世の肖像制作 (時期: 1530年代)
ボローニャでの皇帝戴冠(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1530年2月24日)
アウクスブルク帝国議会と四都市信仰告白(マルティン・ブツァー, 時期: 1530年7月9日)
ミカエル・セルヴェトゥスとの交流(ヨハネス・エコランパディウス, 時期: 1530年10月頃~1531年)
1531年
フィッシャー暗殺未遂とされる毒殺事件 (時期: 1531年)
神聖ローマ皇帝への働きかけ (時期: 1531年~1533年)
シュマルカルデン同盟への関与 (時期: 1531年以降)
ツヴィングリとの関係悪化(マルティン・ブツァー, 時期: 1531年)
シュマルカルデン同盟の形成 (時期: 1531年以降)
ローマ王への選出(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1531年1月5日)
1532年
カンタベリー大主教への任命 (時期: 1532年~1533年)
ニュルンベルク宗教平和 (時期: 1532年)
アン・ブーリンの宮廷での活動 (時期: 1532年~1536年頃)
大法官辞任(トマス・モア, 時期: 1532年5月16日)
結婚 (時期: 1532年7月27日)
1533年
両親の婚姻無効と王位継承権喪失 (時期: 1533年)
カンタベリー大主教就任(トマス・クランマー, 時期: 1533年)
聖女エリザベス・バートン事件 (時期: 1533年~1534年)
パリ大学での医学研究(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1533年~1536年頃)
イタリア留学とローマ滞在(フィリベール・ド・ロルム, 時期: 1533年~1536年)
ウィーンを主要な統治拠点として整備(フェルディナント・フォン・ハプスブルク, 時期: 1533年以降)
『大使たち』の制作 (時期: 1533年)
レーゲンスブルクの宗教改革とプロテスタント化 (時期: 1533年)
1534年
国王至上法 (時期: 1534年)
オックスフォード大学での学業(ウィリアム・ティンダル, 時期: 1534年頃~1545年)
新約聖書改訂版の出版(ウィリアム・ティンダル, 時期: 1534年)
トマス・モアの投獄 (時期: 1534年~1535年)
トマス・モアとともにロンドン塔へ収監 (時期: 1534年~1535年)
ヘンリー8世の王室付き聖職者(ヒュー・ラティマー, 時期: 1534年頃~1535年)
地図・測量器具製作所の設立 (時期: 1534年頃)
ルター聖書の全訳完成・刊行 (時期: 1534年)
バーゼル大学での教授・牧師就任(アンドレアス・カールシュタット, 時期: 1534年)
アウグスティノ会修道院の管理者就任(アルブレヒト・アルトドルファー, 時期: 1534年頃)
国王至上権の宣誓拒否(トマス・モア, 時期: 1534年4月~1535年)
国王至上権への宣誓拒否(トマス・モア, 時期: 1534年4月~1535年)
ロンドン塔への収監(ジョン・フィッシャー, 時期: 1534年4月26日~1535年6月)
1535年
ウェールズ法によるイングランドとの統合 (時期: 1535年~1543年)
ティンダルの逮捕 (時期: 1535年)
殉教と列聖(ジョン・フィッシャー, 時期: 1535年~1935年)
ウスター司教就任(ヒュー・ラティマー, 時期: 1535年)
アルミニウスの伝記の刊行 (時期: 1535年)
ヘンリー8世の宮廷画家就任(ハンス・ホルバイン, 時期: 1535年頃~1536年)
父の工房で名前が初めて記録される(ルーカス・ズンダー, 時期: 1535年)
ウィーンへのレーゲンスブルク使節派遣 (時期: 1535年)
枢機卿への任命(ジョン・フィッシャー, 時期: 1535年5月21日)
フィッシャー裁判 (時期: 1535年6月17日)
ジョン・フィッシャーの処刑 (時期: 1535年6月22日)
トマス・モア裁判 (時期: 1535年7月1日)
オックスフォード大学入学(ジョン・ジュエル, 時期: 1535年7月)
トマス・モアの処刑 (時期: 1535年7月6日)
1536年
修道院解散 (時期: 1536年~1542年)
ヴィルヴォールデ裁判と処刑 (時期: 1536年)
ティンダル聖書の後世への影響 (時期: 1536年以降)
ルーヴェンでの解剖学研究(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1536年頃)
リヨンでの建築活動 (時期: 1536年~1540年頃)
ヴィッテンベルク協定 (時期: 1536年)
騎馬試合での負傷 (時期: 1536年1月24日)
アン・ブーリンの失脚と処刑 (時期: 1536年5月)
1537年
パドヴァ大学で医学博士号取得(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1537年)
パドヴァ大学での解剖学教授就任(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1537年~1542年)
パレスチナ地図の制作・刊行(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1537年)
フランドル地図の測量・制作(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1537年~1540年)
教皇庁財宝横領容疑による逮捕(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1537年~1540年)
ヴィラ・ゴディの設計 (時期: 1537年頃~1542年頃)
シュマルカルデン条項への関与 (時期: 1537年)
ヴィッテンベルク市長への就任(ルーカス・マラー, 時期: 1537/38年~1543/44年)
兄ハンス・クラナッハの死去 (時期: 1537年)
メランヒトンとの出会い(ヤン・ワスキ, 時期: 1537年)
エドワード王子の誕生 (時期: 1537年10月12日)
1538年
「6枚の解剖図」刊行 (時期: 1538年)
クリスティーナ・フォン・デンマークの肖像制作 (時期: 1538年)
ジョン・フォレストの処刑前説教(ヒュー・ラティマー, 時期: 1538年5月22日)
ウィリアム・カウブリッジの火刑(ジョン・フォックス, 時期: 1538年9月)
1539年
六箇条法 (時期: 1539年)
六箇条法への反対 (時期: 1539年)
ウスター司教職辞任と拘禁(ヒュー・ラティマー, 時期: 1539年~1540年)
レティクスとの交流(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1539年~1540年頃)
サンタンジェロ城脱獄事件 (時期: 1539年頃)
アン・オブ・クレーヴズの肖像制作 (時期: 1539年)
『アン・オブ・クレーヴズの肖像』制作 (時期: 1539年)
ウスター司教辞任(ヒュー・ラティマー, 時期: 1539年7月)
コーパス・クリスティ・カレッジ奨学生選出(ジョン・ジュエル, 時期: 1539年8月19日)
1540年
プロテスタントへの転向(ジョン・フォックス, 時期: 1540年代前半)
「天球の回転について」の完成・出版準備 (時期: 1540年~1543年)
軍医としての活動(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1540年代)
フランス宮廷での対立(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1540年~1545年)
フランス王フランソワ1世への奉仕(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1540年~1545年)
「塩入れ(サリエラ)」の制作 (時期: 1540年~1543年)
ヴィチェンツァでの建築家としての活動拡大(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1540年代~1560年代)
パリでの活動開始 (時期: 1540年頃)
ルーアンでの活動開始(ジャン・グージョン, 時期: 1540年頃~1542年)
サン=マクルー教会での彫刻制作(ジャン・グージョン, 時期: 1540年頃)
カトリック教会との決別(ヤン・ワスキ, 時期: 1540~1543年頃)
ルーヴェンへの移住と結婚(ヤン・ワスキ, 時期: 1540年)
1541年
アイルランド王号の制定 (時期: 1541年~1542年)
地球儀の制作(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1541年)
ローマ建築研究旅行(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1541年以降)
ローマでの古代建築研究 (時期: 1541年以降、複数回)
サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の内陣仕切り制作 (時期: 1541年~1544年)
ルーアン大聖堂のルイ・ド・ブレゼ墓碑 (時期: 1541年~1542年)
レーゲンスブルク宗教会談(フィリップ・シュヴァルツェルデ, 時期: 1541年)
ストラスブールのペスト流行 (時期: 1541年)
1542年
ヴィラ・ピザーニの建設 (時期: 1542年~1545年)
パリへの移住とピエール・レスコとの協働(ジャン・グージョン, 時期: 1542年~1544年頃)
理髪外科医組合のためのヘンリー8世関連作品 (時期: 1542年~1543年)
エムデンのプロテスタント教会牧師となる(ヤン・ワスキ, 時期: 1542年)
キャサリン・ハワードの処刑 (時期: 1542年2月13日)
1543年
王位継承権の回復 (時期: 1543年~1544年)
「天球の回転について」の出版 (時期: 1543年)
ヴェサリウスの解剖学的方法への批判 (時期: 1543年~1555年頃)
「人体の構造について」刊行 (時期: 1543年)
皇帝カール5世の侍医就任(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1543年)
エムデン教会改革(ヤン・ワスキ, 時期: 1543~1546年頃)
東フリースラントの教会制度改革(ヤン・ワスキ, 時期: 1543~1546年)
「天球の回転について」出版 (時期: 1543年5月)
1544年
異端の疑いによる逮捕・投獄(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1544年)
異端容疑による投獄(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1544年)
エクアン城での制作 (時期: 1544年~1547年頃)
サン=ジェルマン=ロクセロワ教会の内陣仕切り (時期: 1544年~1545年)
ブローニュ占領 (時期: 1544年9月18日)
1545年
オックスフォード大学からの辞任(ジョン・フォックス, 時期: 1545年)
トマス・ルーシー家での家庭教師(ジョン・フォックス, 時期: 1545年~1547年頃)
文学修士号取得(ジョン・ジュエル, 時期: 1545年)
フィレンツェへの帰還(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1545年)
「ペルセウスとメドゥーサ」の制作 (時期: 1545年~1554年)
モンモランシー家のための制作(ジャン・グージョン, 時期: 1545年~1547年頃)
1546年
ロンドン塔への再収監(ヒュー・ラティマー, 時期: 1546年)
「中国根論」刊行 (時期: 1546年)
ルーヴル宮殿再建計画への起用(ピエール・レスコ, 時期: 1546年)
フランス王室建築家としての地位確立(ピエール・レスコ, 時期: 1546年~1578年)
ルーヴルのレスコ翼の建設 (時期: 1546年~1551年)
カリアティードの間の制作 (時期: 1546年~1549年)
王室建築家として五代の王に仕える(ピエール・レスコ, 時期: 1546年~1578年)
シュマルカルデン戦争後の避難とヴィッテンベルク復帰 (時期: 1546年~1547年)
『Historia Lutheri』の執筆 (時期: 1546年~1548年頃)
1547年
エドワード6世即位後の釈放(ヒュー・ラティマー, 時期: 1547年)
エドワード6世時代の説教活動(ヒュー・ラティマー, 時期: 1547年~1553年)
エドワード6世時代の宗教改革と処刑反対活動(ジョン・フォックス, 時期: 1547年~1551年)
ロンドンでの宗教改革活動(ジョン・フォックス, 時期: 1547年~1553年)
ピーター・マーティル・ヴェルミーリの弟子となる(ジョン・ジュエル, 時期: 1547年以降)
アネ城の建設 (時期: 1547年~1555年)
フランソワ1世の墓所設計 (時期: 1547年頃)
フランソワ1世死去後の職務継続(ピエール・レスコ, 時期: 1547年)
フォンテーヌ・デ・イノサンの設計 (時期: 1547年~1549年)
アンリ2世の宮廷彫刻家就任(ジャン・グージョン, 時期: 1547年)
『ウィトルウィウス建築十書』フランス語版の挿絵 (時期: 1547年)
フォンテーヌ・デ・イノサンの彫刻制作 (時期: 1547年~1550年)
帝国の宗教的分裂の固定化 (時期: 1547年~1555年)
ヨハン・フリードリヒ1世の捕虜化 (時期: 1547年)
死去とエドワード6世への王位継承(ヘンリー・テューダー, 時期: 1547年1月28日)
エドワード6世の即位 (時期: 1547年1月28日)
ミュールベルクの戦い (時期: 1547年4月24日)
ピンキーの戦い (時期: 1547年9月10日)
1548年
『1549年祈祷書(Book of Common Prayer)』の作成 (時期: 1548年~1549年)
アンリ2世の王室建築家として活動 (時期: 1548年~1559年)
カルナヴァレ館の建設 (時期: 1548年~1550年)
ヴァレリー城の設計 (時期: 1548年頃~1550年代)
ルーヴル宮殿の寓意彫刻(ジャン・グージョン, 時期: 1548年~1550年代)
スペイン宮廷での摂政 (時期: 1548年~1551年)
スペイン摂政就任(マリア・フォン・ハプスブルク, 時期: 1548年~1551年)
スペイン王室における統治経験 (時期: 1548年~1551年)
スペイン摂政就任(マリア・フォン・シュパーニエン, 時期: 1548年~1551年)
スペイン統治への参加(マリア・フォン・シュパーニエン, 時期: 1548年~1551年)
アウクスブルク暫定令への対応 (時期: 1548年)
ライプツィヒ暫定令への関与(フィリップ・シュヴァルツェルデ, 時期: 1548年~1549年)
アウクスブルク暫定令とストラスブール追放(マルティン・ブツァー, 時期: 1548年)
アンリ2世の王室建築家就任(フィリベール・ド・ロルム, 時期: 1548年4月3日)
1549年
トマス・シーモアの処刑 (時期: 1549年1月~3月)
祈祷書反乱 (時期: 1549年)
ケットの反乱 (時期: 1549年)
1549年祈祷書の導入 (時期: 1549年)
エドワード・シーモア失脚とジョン・ダドリー政権の成立 (時期: 1549年~1550年)
『1552年祈祷書(Book of Common Prayer)』の改訂 (時期: 1549年~1552年)
ヴィチェンツァのバシリカ改築事業(アンドレーア・パッラーディオ, 時期: 1549年以降)
バシリカ・パッラディアーナの改築設計 (時期: 1549年~)
ケンブリッジ大学での神学教授就任(マルティン・ブツァー, 時期: 1549年)
ヴィッテンベルク市参事会員となる(ルーカス・ズンダー, 時期: 1549年~1567年)
サマセット失脚事件 (時期: 1549年10月~1550年)
1550年
エリザベート・ド・ヴァロワとの婚約 (時期: 1550年~1551年)
パラッツォ・キエリカーティの設計 (時期: 1550年頃~)
「古代ローマの遺跡と建築の研究」 (時期: 1550年代)
木材を節約する新しい屋根架構の開発 (時期: 1550年代)
ルーヴル契約の締結(ピエール・レスコ, 時期: 1550年~1551年)
ピエール・ド・ロンサールとの交流(ピエール・レスコ, 時期: 1550年代)
ルーヴル南西翼の完成 (時期: 1550年代)
ルーヴル宮殿のカリアティード制作(ジャン・グージョン, 時期: 1550年~1551年)
『キリストの王国について』の執筆 (時期: 1550年頃)
ヨハン・フリードリヒ1世の流刑・捕囚への同行(ルーカス・マラー, 時期: 1550年~1552年)
父ルーカス・クラナッハのヴィッテンベルク離脱と工房の引き継ぎ(ルーカス・ズンダー, 時期: 1550年頃)
父の工房を全面的に引き継ぐ(ルーカス・ズンダー, 時期: 1550年頃)
ロンドンの外国人プロテスタント教会の組織化 (時期: 1550~1553年)
『Forma ac ratio』の刊行 (時期: 1550年)
1551年
四十二箇条(Forty-two Articles)の形成 (時期: 1551年~1553年)
サラマンカでの調査 (時期: 1551年)
天球儀の制作(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1551年)
フランス王室のルーヴル建築事業継続 (時期: 1551年~1578年)
ヴァイセンブルク条約 (時期: 1551年)
『ヘラクレス連作』の制作 (時期: 1551年)
1552年
1552年版『共通祈祷書』 (時期: 1552年)
『Actes and Monuments』の執筆開始(ジョン・フォックス, 時期: 1552年)
神学博士号取得(ジョン・ジュエル, 時期: 1552年)
サニングウェル教区牧師就任(ジョン・ジュエル, 時期: 1552年頃)
宗教的対立によるルーヴェンからの移住(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1552年)
デュースブルクでの宗教・学問活動(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1552年~1594年)
デュースブルクへの移住(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1552年)
1552年の拘禁(ジャン・グージョン, 時期: 1552年)
ウィーン宮廷への移動(マリア・フォン・シュパーニエン, 時期: 1552年)
ワイマールでの晩年の活動(ルーカス・マラー, 時期: 1552年~1553年)
インスブルックからの逃亡 (時期: 1552年5月)
1553年
カトリック復興 (時期: 1553年~1558年)
エドワード6世死後の王位継承問題 (時期: 1553年)
トマス・クランマー裁判 (時期: 1553年~1556年)
メアリー1世即位後の逮捕(ヒュー・ラティマー, 時期: 1553年~1554年)
メアリー1世即位後の収監(ヒュー・ラティマー, 時期: 1553年~1555年)
メアリー1世即位と亡命(ジョン・フォックス, 時期: 1553年~1554年)
メアリー1世即位とオックスフォードからの追放(ジョン・ジュエル, 時期: 1553年~1554年)
ロンドンからの宗教難民脱出(ヤン・ワスキ, 時期: 1553~1554年)
メアリー1世即位によるイングランド追放 (時期: 1553年)
ヴィッテンベルクのペスト流行からの避難(ルーカス・ズンダー, 時期: 1553年1月頃)
1553年の王位継承危機 (時期: 1553年6月~7月)
王位継承指定書 (時期: 1553年6月)
1553年王位継承危機 (時期: 1553年7月)
メアリー1世の即位 (時期: 1553年7月~10月)
1553年王位継承危機の勝利 (時期: 1553年7月~8月)
エドワード6世の死去 (時期: 1553年7月6日)
1554年
ワイアットの反乱とエリザベスの拘禁 (時期: 1554年1月~1555年5月)
フランクフルトの宗教論争 (時期: 1554年~1555年)
メアリー1世治下の宗教迫害への対応(ジョン・フォックス, 時期: 1554年~1558年)
ストラスブールでのラテン語版草稿刊行(ジョン・フォックス, 時期: 1554年)
カトリック信条への署名(ジョン・ジュエル, 時期: 1554年秋)
エクセター・グラマースクールでの教育(リチャード・フッカー, 時期: 1554年頃~1569年)
「ヨーロッパ地図」の制作(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1554年)
フィレンツェ防衛への参加(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1554年)
オックスフォード論争 (時期: 1554年4月)
クランマー・リドリーらの宗教討論への関与(ジョン・ジュエル, 時期: 1554年4月)
フェリペ2世との結婚 (時期: 1554年7月25日)
1555年
メアリアン迫害 (時期: 1555年~1558年)
宗教改革思想の集大成と殉教 (時期: 1555年~1556年)
フランクフルト亡命者の宗教論争(ジョン・ジュエル, 時期: 1555年)
大陸への宗教亡命(ジョン・ジュエル, 時期: 1555年~1558年)
大陸亡命中の神学研究(ジョン・ジュエル, 時期: 1555年~1558年)
「人体の構造について」改訂版刊行 (時期: 1555年)
フェリペ2世の侍医就任(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1555年~1559年以降)
1555年のエクアンでの拘禁(ジャン・グージョン, 時期: 1555年)
ルーヴル宮殿・レスコ翼の彫刻装飾 (時期: 1555年~1562年)
アウクスブルクの和議 (時期: 1555年)
退位と王朝領の分割(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1555年~1556年)
退位とハプスブルク家の分割(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1555年~1556年)
ヨハン・フリードリヒの記念祭壇画制作 (時期: 1555年)
フランクフルトのプロテスタント共同体での活動(ヤン・ワスキ, 時期: 1555年)
異端審問と有罪判決(ヒュー・ラティマー, 時期: 1555年9月~10月)
ヒュー・ラティマーの火刑 (時期: 1555年10月16日)
オックスフォード殉教者としての死(ヒュー・ラティマー, 時期: 1555年10月16日)
1556年
男色行為をめぐる告発事件(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1556年)
シェノンソー城の橋の建設 (時期: 1556年~1559年頃)
ルーヴル宮殿の彫刻家として継続的に活動(ジャン・グージョン, 時期: 1556年~1562年9月)
カール5世の退位とフェルディナントの皇帝継承 (時期: 1556年~1558年)
宮廷戦争会議の設立 (時期: 1556年)
ポーランドへの帰国(ヤン・ワスキ, 時期: 1556年)
フェリペ2世のスペイン王即位とメアリーのスペイン王妃としての地位 (時期: 1556年1月16日)
トマス・クランマー火刑 (時期: 1556年3月21日)
1557年
ユステ修道院への隠棲(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1557年~1558年)
ユステでの隠棲(カール・フォン・ハプスブルク, 時期: 1557年~1558年)
サン・カンタンの戦い (時期: 1557年8月10日)
1558年
カレー陥落 (時期: 1558年1月)
帰国とエリザベス1世治下での活動開始(ジョン・フォックス, 時期: 1558年~1560年)
エリザベス1世即位後の帰国(ジョン・ジュエル, 時期: 1558年~1559年)
自伝の執筆開始(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1558年)
スペイン再摂政(マリア・フォン・シュパーニエン, 時期: 1558年~1561年)
メアリー1世の死去 (時期: 1558年11月17日)
メアリー1世の死去とエリザベス1世の即位 (時期: 1558年11月17日)
エリザベス1世の即位 (時期: 1558年11月17日)
1559年
エリザベス朝宗教統一令 (時期: 1559年)
イングランド帰国(ジョン・フォックス, 時期: 1559年頃)
ウェストミンスター宗教討論(ジョン・ジュエル, 時期: 1559年)
ソールズベリー司教就任(ジョン・ジュエル, 時期: 1559年~1560年)
建築理論研究への転向 (時期: 1559年~1563年頃)
戴冠式(エドワード・テューダー, 時期: 1559年1月15日)
アンリ2世死去による失脚 (時期: 1559年7月10日以降)
バーゼルでのラテン語版出版(ジョン・フォックス, 時期: 1559年8月)
1560年
生体解剖をめぐる伝説 (時期: 1560年代)
年代学の研究(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1560年代~1569年頃)
ヨーロッパでの学問研究(ジョン・ネイピア, 時期: 1560年代後半~1571年頃)
ヴェネツィアでの教会建築 (時期: 1560年代~1570年代)
『建築第一書』の執筆・刊行 (時期: 1560年代~1567年)
エディンバラ条約 (時期: 1560年7月)
1561年
『新しい建築技法』の刊行 (時期: 1561年)
1562年
『イングランド国教会の弁明』をめぐる論争 (時期: 1562年~1565年頃)
『イングランド国教会の弁明』出版 (時期: 1562年)
フランスからイタリアへの亡命(ジャン・グージョン, 時期: 1562年末頃)
ボローニャへの移住(ジャン・グージョン, 時期: 1562年末~1563年)
ウィーンでの王位継承体制の確立 (時期: 1562年~1564年)
『フィリップ・メランヒトンの肖像』制作 (時期: 1562年頃)
マクシミリアンのローマ王選出 (時期: 1562年12月)
1563年
セント・アンドルーズ大学での学習(ジョン・ネイピア, 時期: 1563年頃~1566年頃)
王室建築家への復帰 (時期: 1563年)
サン・モール城の拡張 (時期: 1563年以降)
スペイン宮廷での教育(ルドルフ・フォン・ハプスブルク, 時期: 1563年~1571年頃)
フィレンツェ美術デザイン・アカデミーの会員(ベンヴェヌート・チェッリーニ, 時期: 1563年1月13日)
『Actes and Monuments』初版刊行 (時期: 1563年3月20日)
ソールズベリー大聖堂の聖職禄授与(ジョン・フォックス, 時期: 1563年5月22日)
ハンガリー王・クロアチア王戴冠(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1563年9月8日)
ハンガリー王妃戴冠(マリア・フォン・ハプスブルク, 時期: 1563年9月9日)
1564年
エルサレム巡礼(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1564年)
パドヴァ大学への復帰要請(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1564年)
クレーフェ公爵家の宇宙誌学者就任(ヘラルト・デ・クレーメル, 時期: 1564年頃)
テュイルリー宮殿の建設 (時期: 1564年~1570年)
オーストリアにおける宗教的寛容政策 (時期: 1564年~1576年)
プラハ・ウィーン宮廷における芸術文化の保護 (時期: 1564年~1576年)
神聖ローマ皇后としての活動 (時期: 1564年~1576年)
フェルディナント1世の死去 (時期: 1564年7月25日)
フェルディナント1世の死去と皇帝位継承(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1564年7月25日)
神聖ローマ皇后就任(マリア・フォン・ハプスブルク, 時期: 1564年7月25日)
神聖ローマ皇后就任(マリア・フォン・シュパーニエン, 時期: 1564年7月25日)
ザキントス島沖での遭難(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1564年10月)
ザキントス島で死去(アンドリース・ファン・ウェーゼル, 時期: 1564年10月15日)
1565年
ヴィッテンベルク市長となる (時期: 1565年~1567年頃)
ヨアヒム・フォン・アンハルトのエピタフ制作 (時期: 1565年)
オックスフォード大学でのエリザベス1世訪問時の宗教討論(ジョン・ジュエル, 時期: 1565年8月)
1566年
ヴィラ・カプラ「ラ・ロトンダ」の設計 (時期: 1566年~1567年頃)
帝国議会によるオスマン戦争への支援 (時期: 1566年)
シゲトヴァール包囲戦 (時期: 1566年8月~9月)
1567年
『建築第一書』の刊行 (時期: 1567年)
グルンバッハ紛争 (時期: 1567年頃)
1568年
ヴィッテンベルク大学への登録(ルーカス・ズンダー, 時期: 1568年)
アドリアノープル条約 (時期: 1568年2月17日)
1569年
北部諸侯の反乱 (時期: 1569年)
オックスフォード大学コーパス・クリスティ・カレッジ入学(リチャード・フッカー, 時期: 1569年頃~1577年)
1569年世界地図の刊行 (時期: 1569年)
「メルカトル図法による世界地図」の制作 (時期: 1569年)
1570年
教皇によるエリザベス1世破門 (時期: 1570年)
『Actes and Monuments』第二版刊行 (時期: 1570年)
教皇ピウス5世によるエリザベス1世破門 (時期: 1570年)
『扇動的な教皇勅書への見解』執筆 (時期: 1570年)
「アトラス」の構想・地図製作 (時期: 1570年代~1590年代)
『建築四書』刊行 (時期: 1570年)
1571年
リドルフィ陰謀事件 (時期: 1571年)
カンタベリー召集による『Actes and Monuments』の設置 (時期: 1571年)
1571年議会への出席(ジョン・ジュエル, 時期: 1571年)
三十九箇条改訂版の監督(ジョン・ジュエル, 時期: 1571年)
スコットランドへの帰国(ジョン・ネイピア, 時期: 1571年)
1572年
フランドルの再洗礼派への処刑反対(ジョン・フォックス, 時期: 1572年)
ハンガリー王としての統治開始(ルドルフ・フォン・ハプスブルク, 時期: 1572年)
ハンガリー王戴冠(ルドルフ・フォン・ハプスブルク, 時期: 1572年9月25日)
1573年
ガートネスでの研究活動(ジョン・ネイピア, 時期: 1573年~1608年)
1575年
神学上の異端疑惑(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1575年)
ポーランド王位への立候補(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1575年~1576年)
ボヘミア王戴冠(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1575年9月22日)
ローマ王選出(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1575年10月27日)
1575年ポーランド王選挙(マクシミリアン・フォン・ハプスブルク, 時期: 1575年12月)
1576年
ドミニコ会からの逃亡(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1576年)
ヨーロッパ遍歴の開始 (時期: 1576年以降)
息子たちの王朝形成への関与(マリア・フォン・シュパーニエン, 時期: 1576年~1603年)
ポーランド遠征の準備と死去 (時期: 1576年10月12日)
神聖ローマ皇帝即位(ルドルフ・フォン・ハプスブルク, 時期: 1576年10月12日~11月1日)
マクシミリアン2世の死去 (時期: 1576年10月12日)
1577年
フランシス・ドレークの世界周航 (時期: 1577年~1580年)
イル・レデントーレ聖堂の設計 (時期: 1577年~1580年)
1579年
ジュネーヴでのカルヴァン派との対立(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1579年)
トゥールーズでの哲学教授活動と退去(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1579年~1581年)
聖職者への叙任(リチャード・フッカー, 時期: 1579年8月14日)
1580年
コーパス・クリスティ・カレッジ学長選挙をめぐる対立(リチャード・フッカー, 時期: 1580年頃)
「教会統治の法について」の執筆開始(リチャード・フッカー, 時期: 1580年代後半~1590年代)
オリンピコ劇場の建設開始 (時期: 1580年)
プラハを中心とする芸術・学術活動の発展 (時期: 1580年代~1600年代)
ラス・デスカルサス・レアレス修道院への定住(マリア・フォン・ハプスブルク, 時期: 1580年代~1603年)
トマス・ルイス・デ・ビクトリアの後援 (時期: 1580年代~1603年)
1581年
セント・ポールズ・クロス説教をめぐる宗教論争 (時期: 1581年頃)
セント・ポールズ・クロスでの説教(リチャード・フッカー, 時期: 1581年)
パリでの記憶術研究と講義(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1581年~1583年)
ピサ大学で医学を学び始める(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1581年)
1582年
スペインへの帰還 (時期: 1582年)
ラス・デスカルサス・レアレス修道院での晩年(マリア・フォン・シュパーニエン, 時期: 1582年~1603年)
1583年
『Actes and Monuments』第四版刊行 (時期: 1583年)
オックスフォード大学での論争(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1583年~1584年)
イングランド滞在と著作活動(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1583年~1585年)
宮廷のプラハ移転 (時期: 1583年)
1584年
ドレイトン・ビーチャム教区牧師就任(リチャード・フッカー, 時期: 1584年)
「灰の水曜日の晩餐」刊行 (時期: 1584年)
「無限, 宇宙と諸世界について」刊行 (時期: 1584年)
1585年
ネーデルラントへのイングランド軍派遣 (時期: 1585年)
テンプル教会におけるウォルター・トラヴァースとの論争 (時期: 1585年~1586年頃)
テンプル教会マスター就任(リチャード・フッカー, 時期: 1585年)
ピサ大学を離れる(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1585年)
1586年
バビントン陰謀事件 (時期: 1586年)
ドイツ・中欧での大学活動(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1586年~1591年)
1587年
メアリー・ステュアートの処刑 (時期: 1587年2月8日)
1588年
スペイン無敵艦隊の撃破 (時期: 1588年)
スペイン無敵艦隊侵攻危機 (時期: 1588年)
教会総会への代表就任(ジョン・ネイピア, 時期: 1588年)
スペイン無敵艦隊の侵攻 (時期: 1588年7月~8月)
ティルベリー演説(エリザベス・テューダー, 時期: 1588年8月8日)
1589年
イングランド無敵艦隊の遠征 (時期: 1589年)
斜塔からの落体実験に関する活動 (時期: 1589年~1591年頃)
1590年
「地理学」の改訂・刊行 (時期: 1590年代)
対数の研究(ジョン・ネイピア, 時期: 1590年代~1614年)
フランクフルトでの主要著作執筆(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1590年~1591年)
軍用コンパスの開発(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1590年代)
1591年
セント・アンドルーズ教会の聖職禄取得(リチャード・フッカー, 時期: 1591年)
ヴェネツィアへの帰還(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1591年)
1592年
スペイン・ブランクス陰謀事件 (時期: 1592年~1593年)
パドヴァ大学教授就任(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1592年)
ヴェネツィア異端審問による逮捕(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1592年5月22日~1592年9月)
1593年
「教会統治の法について」第1~4巻刊行 (時期: 1593年)
「聖ヨハネの黙示録の全体についての平易な解説」刊行 (時期: 1593年)
ローマ異端審問裁判(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1593年~1600年)
長期トルコ戦争の開始 (時期: 1593年)
ローマへの移送(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1593年1月~2月頃)
ジェームズ6世への使節団派遣 (時期: 1593年10月)
ジェームズ6世への宗教政策上の働きかけ (時期: 1593年10月~1594年1月)
1594年
隠された財宝探索契約 (時期: 1594年7月)
1595年
ビショップスボーン教区牧師就任(リチャード・フッカー, 時期: 1595年)
1596年
カディス攻撃 (時期: 1596年)
軍事技術に関する「秘密の発明」 (時期: 1596年)
1597年
「教会統治の法について」第5巻刊行 (時期: 1597年)
1599年
異端審問への最終的な抵抗(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1599年~1600年)
ティコ・ブラーエの宮廷招聘 (時期: 1599年)
1600年
異端判決と火刑(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1600年1月20日~2月17日)
火刑による死(フィリッポ・ブルーノ, 時期: 1600年2月17日)
1601年
ヨハネス・ケプラーの宮廷天文学者就任(ルドルフ・フォン・ハプスブルク, 時期: 1601年)
エセックスの反乱 (時期: 1601年2月)
キンセールの戦い (時期: 1601年12月~1602年1月)
1603年
ラス・デスカルサス・レアレスでの死去(マリア・フォン・ハプスブルク, 時期: 1603年2月26日)
エリザベス1世の死去とテューダー朝の終焉 (時期: 1603年3月24日)
1606年
ハンガリーにおけるプロテスタント勢力との妥協 (時期: 1606年)
ウィーンの和約 (時期: 1606年6月23日)
ジトヴァ・トロクの和約 (時期: 1606年11月11日)
1608年
父の死とメルキストン領主相続(ジョン・ネイピア, 時期: 1608年)
ルドルフ2世とマティアスの権力闘争 (時期: 1608年)
オーストリア・ハンガリー・モラヴィアの統治権譲渡 (時期: 1608年)
1609年
望遠鏡の改良と天体観測(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1609年~1610年)
ボヘミアの宗教的自由の保障 (時期: 1609年)
陛下の書状発行 (時期: 1609年7月9日)
1610年
「星界の報告」刊行 (時期: 1610年)
フィレンツェ宮廷への移籍(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1610年)
1611年
マティアスによるボヘミア制圧 (時期: 1611年)
1612年
神聖ローマ皇帝としての死去(ルドルフ・フォン・ハプスブルク, 時期: 1612年1月20日)
1613年
コペルニクスの地動説をめぐる論争(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1613年~1616年)
1614年
「驚異の対数規則の記述」刊行 (時期: 1614年)
1615年
ヘンリー・ブリッグスとの交流(ジョン・ネイピア, 時期: 1615年~1616年頃)
ガリレオの地動説をめぐる最初の異端審問(ガリレオ・ディ・ヴィンチェンツォ・ボナイウティ・デ・ガリレイ, 時期: 1615年~1616年)
1616年
地動説に対する警告(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1616年)
1617年
「ラブドロジー」刊行 (時期: 1617年)
1623年
「試金者」刊行 (時期: 1623年)
1632年
「天文対話」をめぐるガリレオ裁判 (時期: 1632年~1633年)
「二大世界体系についての対話」刊行 (時期: 1632年)
1633年
自宅軟禁(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1633年~1642年)
アルチェトリでの晩年の研究(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1633年~1642年)
異端審問による判決(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1633年6月22日)
1638年
「新科学対話」刊行(ガリレオ・ガリレイ, 時期: 1638年)
1755年
クラクフ大学での学習(ニコラウス・コペルニクス, 時期: 1755~1763年頃)
クラクフ大学への入学(ヤン・カンティ・ブロジンスキ, 時期: 1755~1756年)
1763年
クラクフ大学での講師活動(ヤン・カンティ・ブロジンスキ, 時期: 1763~1764年)
自由七科・哲学分野での講義(ヤン・カンティ・ブロジンスキ, 時期: 1763~1764年)
クラクフ大学での学士号取得(ヤン・カンティ・ブロジンスキ, 時期: 1763年5月21日)
1768年
司祭としての活動(ヤン・カンティ・ブロジンスキ, 時期: 1768~1794年頃)
1791年
ボドザヌフ教区での助任司祭(ヤン・カンティ・ブロジンスキ, 時期: 1791~1794年)
1935年
死後の列聖 (時期: 1935年)
不明
アンリ2世階段の建設 (時期: 16世紀中頃)
フォンテーヌブロー派への影響(ジャン・グージョン, 時期: 16世紀中頃~後半)
諸聖人参事会教会の参事会員(ヤン・カンティ・ブロジンスキ, 時期: 18世紀後半~1794年)

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