南軍司令官として戦い戦後は教育を通じ南北和解に尽力
ロバート・エドワード・リーは、南北戦争で南部同盟の北ヴァージニア軍司令官を務めた軍人です。故郷ヴァージニア州への忠誠から南軍の指揮を執り、優れた戦術で北軍を長年苦しめました。1865年にアポマトックスでグラント将軍に降伏し戦争を終結。戦後はワシントン大学(現ワシントン・アンド・リー大学)の総長に就任し、若者の教育と国民的和解に全力を注ぎ、敗戦後の南部の復興と統合に大きく貢献しました。
ロバート・エドワード・リーは、南北戦争で南部同盟の北ヴァージニア軍司令官を務めた軍人です。故郷ヴァージニア州への忠誠から南軍の指揮を執り、優れた戦術で北軍を長年苦しめました。1865年にアポマトックスでグラント将軍に降伏し戦争を終結。戦後はワシントン大学(現ワシントン・アンド・リー大学)の総長に就任し、若者の教育と国民的和解に全力を注ぎ、敗戦後の南部の復興と統合に大きく貢献しました。
ヴァージニアの名門「ファースト・ファミリズ(FFV)」の一角であるリー家は、南北戦争と再建期において決定的な役割を果たしました。北ヴァージニア軍を率いたロバート・E・リー司令官は敗戦後、ワシントン大学(現ワシントン・アンド・リー大学)の総長に就任し教育を通じた国家の復興に尽力。息子のジョージ・ワシントン・カスタス・リーらも教育者・政治家として社会の再建に携わり、旧南部の象徴から新南部の発展へと transitional(変革)を遂げました。
クリーク戦争は、伝統維持と侵略抵抗を掲げる「赤棒派」と米軍・親米派先住民との間で戦われた衝突です。米英戦争の一環としても位置づけられ、ミムズ砦の戦いで幕を開けました。アンドリュー・ジャクソン率いる合衆国軍は1814年のホースシュー・ベンドの戦いで赤棒派を撃破。敗北後のジャクソン砦条約により、親米派を含むクリーク族全体が現在の首府を含む約2000万エーカーの広大な領土を合衆国へ割譲させられました。
オセオラは、フロリダのセミノール族を率いて合衆国の強制移住政策に激しく抵抗した指導者です。1830年のインディアン強制移住法に基づく退去要求を固く拒否し、第二次セミノール戦争で蜂起しました。エバーグレーズの湿地帯を活かした巧みなゲリラ戦で米軍を幾度も翻弄しましたが、1837年、休戦の白旗を掲げて交渉に臨んだ際に米軍の騙し討ちに遭い捕縛されました。翌年に獄死したものの、その不屈の精神は先住民抵抗の象徴として語り継がれています。
ウィリアム・ウェザーフォード(レッド・イーグル)は、クリーク戦争(1813〜1814年)において米国の侵攻に激しく抵抗した強硬派「赤棒派(レッド・スティックス)」の指導者です。白人とクリーク族の混血の血を引き、1813年のミムズ砦の戦いで指揮を執りました。ホースシュー・ベンドの戦いで壊滅的な打撃を受けた後、アンドリュー・ジャクソン将軍のもとへ単身で赴き、部族の婦女子を救うため潔く投降した勇猛と誇り高き逸話で知られています。
セクォヤ(ジョージ・ゲスト)は、チェロキー文字(チェロキー音節文字)を独力で創案したチェロキー族の銀職人・知識人です。文字を持たなかったチェロキー族のために、85の音節文字からなる表記体系を十数年かけて完成させました。この発明により部族内の識字率は飛躍的に向上し、新聞の発行や憲法制定が可能となりました。部族の文化的自立と結束に多大な貢献を果たし、先住民史における至高の偉業と称えられています。
テカムセは、ショーニー族の著名な指導者であり、合衆国の領土拡大に対抗するため先住民同盟(テカムセ同盟)を結成した偉大なカリスマです。土地の私有化や割譲を拒否し、部族の結束と伝統の回復を訴えました。ウィリアム・ヘンリー・ハリソン率いる米軍とのティペカヌーの戦いや米英戦争で部族戦士を指揮。英軍と同盟を結んで戦うも、1813年のテムズの戦いで戦死し、その壮絶な生涯は伝説的指導者として語り継がれています。
プシュマタハは、チョクトー族の著名な最高チーフ(指導者)であり、優れた雄弁家・軍人です。米英戦争やクリーク戦争において、反米同盟を呼びかけるショショニ族のテカムセの要請を拒絶し、アメリカ合衆国側と同盟を提携。アンドリュー・ジャクソン軍の准将として部族の戦士を率い勝利に貢献しました。平和的な交渉を通じて自国民の土地と権利の防衛に粘り強く尽力し、部族の生存と存続に決定的な役割を果たしました。
アイザック・シェルビーは、独立戦争と米英戦争の双方で活躍した軍人であり政治家です。独立戦争中の1780年「キングスマウンテンの戦い」で山越民(オーバーマウンテン・メン)を率いて英軍を大破し、戦局転換に大きく貢献しました。1792年には新設されたケンタッキー州の初代知事に就任。さらに米英戦争時には60代で再び知事として志願兵を率い、テムズの戦いで勝利を収めるなど西部の安全と防衛に生涯を捧げました。
ジョン・セビアは、アメリカ独立戦争および西部領土拡大期に活躍した開拓者・軍人・政治家です。独立戦争ではキングスマウンテンの戦いで軍を率いて勝利に貢献しました。独立後は暫定独立国家「フランクリン国」の知事を務めた後、1796年に新設されたテネシー州の初代知事に就任。先住民との度重なる衝突や土地取引を主導しながら、アパラチア山脈以西のフロンティア開拓と政治基盤の確立に生涯を捧げました。
アメリカの領土拡大は先住民国家との熾烈な衝突の連続でした。テカムセを中心とする先住民同盟はインディアン戦争で合衆国の拡大に対抗しましたが、ウィリアム・ヘンリー・ハリソンらに破られました。1830年のインディアン強制移住法により、チェロキー族らが「涙の道」と呼ばれる強制移住を余儀なくされるなど、マニフェスト・デスティニーの推進は先住民の主権と伝統的生存圏の喪失という多大な犠牲の上に進められました。
ジョン・ランドルフ・オブ・ロアノークは、合衆国下院議員や上院議員、駐ロシア公使を歴任したバージニアの政治家です。鋭い弁舌と毒舌で知られ、連邦政府の権限拡大に激しく反対する「旧共和派(Old Republicans)」のリーダーとして州権主義を擁護しました。従兄弟トーマス・ジェファーソンの政権下で下院予算委員会委員長を務めるも、ルーイジアナ買収や米英戦争に反対して対立。頑なな原点主義を貫き、連邦議会で強大な存在感を示しました。
トーマス・マン・ランドルフ・ジュニアは、バージニア州知事や連邦下院議員を務めた政治家・農学者です。トーマス・ジェファーソンの長女マーサと結婚し、義父の政治活動や農場経営を深く支えました。エディンバラ大学で学んだ知識を活かし、等高線耕起法など土壌侵食を防ぐ先進的な農法を開発・普及させて地力の回復に寄与。米英戦争時には陸軍大佐として軍を率い、政治・農業・軍事の多方面から初期合衆国の発展に貢献しました。
エドマンド・ジェニングス・ランドルフは、バージニア州知事や初代合衆国司法長官、第2代国務長官を歴任した建国の父の一人です。1787年の憲法制定会議では大州の利害を反映した「バージニア案」を提示し、二院制議会など連邦政府の骨組み形成に決定的な役割を果たしました。当初は中央集権への懸念から憲法への署名を拒否したものの、修正条項の追加を前提に批准を支持し、新国家の法制度と行政の確立に貢献しました。
ジョン・ランドルフは、バージニアの名門家に生まれた法律家で、植民地時代の同地域において最後の大法官(檢事総長)を務めた人物です。第一次大陸会議議長ペイトン・ランドルフの弟であり、トーマス・ジェファーソンとは従兄弟にあたります。アメリカ独立革命の嵐が吹き荒れる中、一族の多くが革命派(愛国派)へ傾くなかで王党派(ロイヤリスト)としての立場を貫き、1875年にイギリスへ亡命しました。