経済発展の理論でベトナム介入を正当化した不屈の理論家
MIT教授からケネディ、ジョンソン政権の国家安全保障担当大統領補佐官などを歴任した経済学者・高官です。著書『経済発展の諸段階』で提示した「テイクオフ(離陸)理論」は近代経済学に大きな影響を与えました。冷戦期、この理論を基に共産主義の拡大を防ぐ近代化政策を提唱。ベトナム戦争では強硬な介入論者として北爆の強化を主導し、終戦後もその選択の正当性を終生疑わなかった、冷戦思考を体現する知識人です。
MIT教授からケネディ、ジョンソン政権の国家安全保障担当大統領補佐官などを歴任した経済学者・高官です。著書『経済発展の諸段階』で提示した「テイクオフ(離陸)理論」は近代経済学に大きな影響を与えました。冷戦期、この理論を基に共産主義の拡大を防ぐ近代化政策を提唱。ベトナム戦争では強硬な介入論者として北爆の強化を主導し、終戦後もその選択の正当性を終生疑わなかった、冷戦思考を体現する知識人です。
ケネディ、ジョンソン両政権でアメリカ史上2番目の長期にわたり国務長官を務めた外交官です。冷戦の最中、キューバ危機では沈着な交渉で核戦争の危機を回避に導きました。一方で「共産主義の封じ込め」を絶対の原則とし、ベトナム戦争への介入を一貫して支持。国内で激しい反戦世論にさらされても、実直かつ寡黙に大統領を支え続けました。職務への忠誠を貫いたその姿勢は、激動の近代外交史において今なお深く研究されています。
フォード社長からケネディ、ジョンソン両政権の国防長官に抜擢された、近代アメリカを代表するシステム分析の鬼才です。冷戦下のキューバ危機では沈着に対処した一方、ベトナム戦争では勝利を「数値化」できると信じ、データ重視の戦力投入で泥沼化を招きました。のちに政策の誤りを認め、防衛界を去った後は世界銀行総裁として途上国支援に奔走。自らの決断がもたらした悲劇と生涯向き合い続けた、苦悩のインテリです。
ケネディ暗殺を受け副大統領から昇格した第36代大統領です。圧倒的な政治力で「公民権法」や「投票権法」を成立させ、人種差別撤廃に不滅の足跡を残しました。さらに貧困撲滅を目指す「偉大な社会」計画を推進し、内政面で巨大な成果を上げました。しかし、冷戦の論理からベトナム戦争への介入を泥沼化させ、国内の激しい反戦運動を招く結果に。内政の偉業と外交の崩壊という、近代米国史上最も毀誉褒貶の激しい指導者の一人です
ベトナム戦争の激化と冷戦政策は、ジョンソン大統領と、ニューイングランドの知性(ハーバード大学やMITなど)を結集した精鋭たちによって主導されました。マクナマラやロストウ、ラスクらは、共産主義の拡大を防ぐ「ドミノ理論」に基づき介入を正当化し、緻密なデータ分析で戦力を投入しました。のちにキッシンジャーが現実主義外交へと転換させますが、最高峰の知性が集った政策決定の全貌は、冷戦期アメリカの覇権主義と理想主義が交錯した近代史の縮図です。
ハーバード大学教授からニクソン政権の国内政策顧問、国連大使、そしてニューヨーク州選出の上院議員を4期務めた、冷戦期を代表する知性派政治家です。社会学者として1965年に「モイニハン報告」を発表し、黒人家庭の崩壊と貧困の連鎖の本質に切り込み激しい論争を巻き起こしました。リベラル派でありながら保守派のニクソンにも重用されるなど、冷戦期のイデオロギーに縛られず、データと独自の洞察で福祉や都市問題の政策を先導した巨頭です。
ハーバード大学教授として長く教鞭を執り、ケネディ政権の頭脳や駐インド大使も務めた20世紀を代表する制度派経済学者です。著書『ゆたかな社会』で、私的消費の陰で公共財が軽視される「私的富裕と公的貧困」の矛盾を鋭く批判し、福祉や教育への投資の重要性を唱えました。冷戦期の市場至上主義に警鐘を鳴らし、巨大企業に対抗する政府の役割を重視。洗練された文筆家としても知られ、リベラル派の経済思想に決定的な影響を与えました。
ハーバード大学教授を務め、ピューリッツァー賞を2度受賞した、20世紀アメリカを代表する高名な歴史家です。冷戦期のリベラリズムを理論的に牽引し、ケネディ大統領の特別補佐官(スピーチライター兼知のご意見番)として政権の中枢(キャメロット)を支えました。のちに著したJFK政権の回顧録『千日の到来』や、大統領権力の肥大化を批判した『帝王的大統領』は名著として知られ、歴史の目撃者かつ最高峰の分析者として学界と政界に巨歩を残しました。
半世紀近くハーバード大学で教鞭を執り、政府の政策顧問も務めた、冷戦期から近代アメリカを代表する政治学者です。国家安全保障や文民統制の理論で頭角を現し、冷戦期にはベトナム戦争の戦略立案にも関与しました。冷戦終結直後に発表した著書『文明の衝突』は、従来のイデオロギー対立に代わり、宗教や文化の境界線(特に西欧とイスラム・中華圏)で激しい紛争が起きると予言し、21世紀の国際政治観に決定的な影響を与えました。
ハーバード大学教授からニクソン、フォード両政権の国家安全保障補佐官や国務長官を歴任した、20世紀最高の外交戦略家です。徹底した「現実政治(リアルポリティクス)」を信条とし、1970年代に極秘交渉による米中関係の正常化や、ソ連との戦略兵器制限交渉(SALT)によるデタント(緊張緩和)を実現。ベトナム戦争の和平協定締結によりノーベル平和賞を受賞した一方、その冷徹な国益最優先の覇権戦略は今なお賛否両論を呼んでいます。
冷戦期、ニューイングランドのハーバード大学は米国の政策決定に頭脳を供給する一大拠点でした。現実主義外交のキッシンジャーや『文明の衝突』のハンティントンが国際戦略の基盤を築く一方、経済学者のガルブレイスや歴史家のシュレジンジャーはケネディ政権の知性(ブレイン・トラスト)としてリベラル政策を理論化しました。民主党・共和党の枠を超え、学術界からホワイトハウスの核心へと繋がったこの知のネットワークは、近代アメリカの世界的覇権を思想と戦略の両面から方向付けました。
メイン州知事を経て上院議員、国務長官を歴任した、ニューイングランドを代表するリベラル政治家です。「環境保護運動の父」と称され、1970年の「大気浄化法(マスキー法)」や水質汚濁防止法の制定を主導し、米国の環境政策の基礎を築きました。1968年大統領選の民主党副大統領候補、1972年大統領選の有力候補として全米の注目を集め、その誠実で高潔な政治姿勢は、冷戦期の激動する政治の中で超党派の深い尊敬を集めました。
ミネソタ州選出の上院議員や第38代副大統領を歴任し、戦後リベラル派の象徴となった政治家です。1948年の民主党全国大会で雄弁に人種差別撤廃を訴え、1964年公民権法の成立では上院の院内総務として決定的な役割を果たしました。ジョンソン政権の副大統領として社会福祉政策「偉大な社会」を推進しましたが、ベトナム戦争への対応を巡り支持基盤が分裂。1968年の大統領選で惜敗するも、生涯を通じて弱者救済に捧げた熱血漢です。
イリノイ州知事を務め、1950年代の大統領選に民主党候補として2度挑戦した、戦後米国の代表的なリベラル政治家です。その卓越した知性と洗練された演説は「エッグヘッド(知識人)」と称され、党内の進歩派を熱狂させました。アイゼンハワーに敗れたものの、リベラリズムの精神的重鎮として君臨。のちにケネディ政権下で国連大使に就任し、キューバ危機ではソ連の欺瞞を国連の場で厳しく追及するなど、冷戦期の外交でも重要な役割を果たしました。
F・ルーズベルト大統領の妻であり、従来の「大統領夫人」の枠を超えて世界的な人権活動家として足跡を残した女性です。夫の在任中は、障害のある夫の「目や耳」となり全米を奔走。貧困層や黒人、女性の権利擁護を熱烈に訴え、ニューディール政策のリベラルな側面を支えました。夫の没後は国連米国代表に就任し、「世界人権宣言」の採択に決定的な役割を果たしました。退任後も生涯を通じて平和と平等のために闘い続けた偉大な先駆者です。