江戸幕府を築いた徳川家の繁栄
江戸幕府を築いた徳川家の繁栄
江戸幕府を築いた徳川家の繁栄
今川氏真は戦国時代から江戸初期にかけての武将で、今川義元の子として家督を継いだ最後の当主。桶狭間の戦いで父を失った後、徳川家康の独立や武田信玄の侵攻により領国を失い、戦国大名としての今川氏は没落した。その後は北条氏や徳川家に仕え、江戸幕府の高家として家名を存続させた。文化面では和歌や蹴鞠に秀でた人物として知られる。
今川義元は戦国時代の大名で、駿河・遠江・三河を支配した今川氏の最盛期を築いた人物。「海道一の弓取り」と称されるほどの勢力を誇り、武田氏・北条氏と三国同盟を結んで東国の安定を図った。内政面では分国法や検地を整備し領国支配を強化。上洛を目指して西進するが、1560年の桶狭間の戦いで織田信長の奇襲を受け討死し、今川氏衰退の契機となった。
今川氏輝は戦国時代の武将で、今川氏親の後を継いだ当主。若年で家督を継ぎ、母・寿桂尼の補佐を受けながら政務を行い、のちに親政を開始した。検地や商業振興、家臣団整備などを進め、領国支配の安定に努めた。また甲斐の武田信虎と戦うなど軍事面でも活動したが、1536年に急死し、その死後に家督争い「花倉の乱」が発生した。
今川氏親は戦国時代初期の武将で、駿河・遠江を支配した今川氏の当主。父・今川義忠の死後、家督争いを経て当主となり、北条早雲の支援を受けて勢力を安定させた。遠江への進出や領国統治の強化を進め、検地や分国法「今川仮名目録」を制定するなど内政面でも成果を上げた。守護大名から戦国大名へと今川氏を発展させた重要人物である。
今川義忠は室町時代の武将で、駿河守護として今川氏を率いた人物。応仁の乱では東軍に属して上洛し、将軍足利義政を支援した。その後は遠江国への侵攻を進め勢力拡大を図るが、1476年、戦後の帰途に国人勢力の奇襲を受けて戦死する。幼い嫡子・今川氏親が後継となり家中は一時混乱したが、この後の今川氏の戦国大名化へとつながる転機となった。
今川範忠は室町時代中期の武将で、駿河守護として今川氏の基盤を支えた人物である。家督争いを経て将軍足利義教の支持を受けて当主となり、幕府への忠誠を背景に勢力を維持した。永享の乱や結城合戦など関東の戦乱に出陣し、鎌倉公方勢力の討伐に貢献したことで、今川氏の地位を安定させた。戦国時代への移行期における重要な橋渡し役となった武将である。
今川了俊(貞世)は南北朝時代から室町初期に活躍した武将・歌人で、室町幕府の九州探題として九州平定に大きな功績を残した。南朝勢力と長年戦い、約20年にわたり各地を転戦して幕府の支配を確立した実力者である。また和歌や著述にも優れ、『難太平記』などを著した文化人でもあった。晩年は将軍足利義満との対立により失脚するが、その功績は高く評価されている。
東海に覇を唱えた名門・今川氏
斎藤龍興は戦国時代の武将で、美濃国を治めた斎藤氏最後の当主。父・斎藤義龍の死後、若くして家督を継いだが、家臣団の統制が取れず内紛が続いた。織田信長の侵攻に対しても劣勢となり、1567年に稲葉山城を失って美濃を追われる。その後も各地で信長に抵抗するが勢力は回復せず、1573年に戦死し斎藤氏は滅亡した。
濃姫は戦国時代の女性で、美濃の戦国大名・斎藤道三の娘として生まれ、織田信長の正室となった。政略結婚によって尾張と美濃の同盟を結ぶ役割を担ったとされるが、史料が乏しく本名や生没年、晩年の動向など多くが不明である。「帰蝶」など複数の名で呼ばれ、その生涯は謎に包まれているが、戦国時代を象徴する女性の一人として広く知られている。
斎藤道三は戦国時代の武将で、美濃国を支配した下剋上の象徴的存在である。もとは油売りや僧侶から身を起こし、土岐氏の家臣として台頭すると、やがて主家を凌いで美濃一国を掌握した。「美濃の蝮」と称されるほどの策略家として知られ、織田信長と同盟を結ぶなど勢力を拡大したが、晩年は嫡男・斎藤義龍との対立により長良川の戦いで敗れ、戦死した。
美濃を制した下剋上の斎藤家
斎藤義龍は戦国時代の武将で、美濃国の戦国大名。父・斎藤道三と対立し、1556年の長良川の戦いでこれを討って家督を継ぎ、美濃の支配権を確立した。父殺しの印象が強いが、家臣団との協調を重視した統治を行い、国内の安定に努めたとされる。また織田信長の侵攻にも対抗し、その勢力拡大を一定期間食い止めたが、1561年に病没し、その後は家中が動揺した。
豊臣秀次は豊臣秀吉の甥で、関白として豊臣政権の中枢を担った人物である。秀吉の後継者と目され政務を任されたが、秀頼誕生後に立場が急速に悪化し、謀反の疑いをかけられて失脚した。1595年、高野山へ追放されたのち切腹を命じられ、さらに一族や側近も処刑される粛清へと発展した。この事件は豊臣政権の不安定さを象徴する出来事とされ、後の衰退の一因ともいわれている。