上院多数党院内総務として大戦下の立法と戦後復興を導いた重鎮
アルベン・ウィリアム・バークリー(ウィリー・アルベン・バークリー)は、ケンタッキー州出身の政治家で、後に第35代副大統領を務めた人物です。下院議員を経て連邦上院議員となり、1937年から10年間にわたり上院多数党院内総務として議会を主導。F・ルーズベルト政権のニューディール立法や第二次世界大戦中の武器貸与法案など戦時立法の成立を支え、戦後のトルーマン政権下でも要職を歴任して合衆国の指導力を支えました。
アルベン・ウィリアム・バークリー(ウィリー・アルベン・バークリー)は、ケンタッキー州出身の政治家で、後に第35代副大統領を務めた人物です。下院議員を経て連邦上院議員となり、1937年から10年間にわたり上院多数党院内総務として議会を主導。F・ルーズベルト政権のニューディール立法や第二次世界大戦中の武器貸与法案など戦時立法の成立を支え、戦後のトルーマン政権下でも要職を歴任して合衆国の指導力を支えました。
ジョン・ナンス・ガーナーは、テキサス州出身の政治家であり、第44代下院議長およびF・ルーズベルト政権の副大統領(第32代)を務めた人物です。「サボテン・ジャック」の愛称で親しまれ、強力な議会統率力を発揮。世界恐慌期の「最初の100日」において、数々のニューディール法案の議会可決を主導しました。後に保守派として労働政策や大統領3選に反対して政権と離反したものの、米国の危機対応を議会側から支えました。
カーター・グラス(ジョージ・カーター・グラス)は、ヴァージニア州出身の政治家・新聞出版者です。下院銀行通貨委員会委員長として連邦準備法(FRB創設)の成立を主導し、ウィルソン政権下で財務長官を務めました。後に上院議員へ転身し、世界恐慌下の1933年には商業銀行と投資銀行の分離を定めた「グラス・スティーガル法」を制定。2つの大戦期を通じて米国の金融・通貨制度の根幹を築き上げました。
19世紀末から二つの世界大戦期にかけて、南部の政治家たちは国政の中心へと復権しました。ウィルソンやF・ルーズベルト政権下で、コーデル・ハルやカーター・グラスなどの南部出身者が国務長官や財務長官、議会主要委員会の要職を独占。対外介入や戦時動員を主導するとともに、軍事基地の誘致やインフラ投資を通じて地元南部の産業化を強力に推進し、旧南部の経済的落後からの脱却と連邦内での地位向上を果たしました。
ロバート・ハウワウト・ジャクソンは、法務長官、司法長官、最高裁判事を歴任した法学者・政治家です。F・ルーズベルト政権下で武器貸与法などの戦時外交政策を法的側面から支えました。1941年に最高裁判事に就任後、第二次世界大戦終結時には連合国側の首席検察官としてニュルンベルク裁判を主導。ナチス戦犯の処罰と国際刑事法の基礎確立に決定的な役割を果たし、法と民主主義の正当性を世界に示しました。
ジェシー・ホルマン・ジョーンズは、テネシー州生まれでヒューストンの発展を後押しした実業家・政治家です。F・ルーズベルト政権下で復興金融公社(RFC)総裁や商務長官を歴任し、世界恐慌期には金融機関や企業への緊急融資を仕切って経済再建を主導しました。第二次世界大戦では、軍需工場建設や戦略物資の確保に膨大な連邦資金を投入し、「米国の借入金管理総裁」として連合国の戦時生産能力を飛躍的に高める原動力となりました。
コーデル・ハルは、F・ルーズベルト政権で史上最長の約11年8ヶ月にわたり国務長官を務めたテネシー州出身の政治家です。中南米に対する「善隣外交」を展開して関税引き下げや自由貿易を推進し、対外関係の改善を図りました。第二次世界大戦中から戦後の国際平和機構の構想を精力的に推し進め、国際連合の設立に決定的な役割を果たしたことから、ルーズベルトより「国連の父」と称えられ、1945年にノーベル平和賞を受賞しました。
クロード・オーガスタス・スワンソンは、ヴァージニア州知事や連邦上院議員を経て、F・ルーズベルト政権で海軍長官を務めた政治家です。上院海軍委員会委員長としての豊富な経験を活かし、1862年生まれの重鎮として軍備拡大政策を強力に推進。世界恐慌下のニューディール予算を活用して大規模な艦艇造船計画(ヴィンソン=トラメル法)を主導し、第二次世界大戦における米海軍の圧倒的な海上戦力の礎を築きました。
セオドアとフランクリンの両ルーズベルト大統領の政権は、アメリカの対外拡張と国際社会での指導的地位を決定づけました。セオドアは「棍棒外交」やパナマ運河建設で中南米への影響力を拡大。フランクリンは世界恐慌下でニューディール政策を進めつつ、第二次世界大戦において「民主主義の兵器庫」として連合国を主導しました。両政権下の外交と軍事指導は、米国を孤立主義から世界的大国へと変貌させました。
イーディス・ボリング・ガルト・ウィルソンは、ウッドロウ・ウィルソン大統領の2番目の妻であり、ヴァージニア州の名家出身のファーストレディです。第一次世界大戦中およびパリ講和会議において夫に同行し政治的助言を行いました。1919年に大統領が脳卒中で倒れた後は、夫の安静を保つ名目で「管理(Stewardship)」を行い、閣僚の面会制限や重要書類の選別を主導。事実上の代理人として国政運営の一部を管理し、影の女性大統領とも呼ばれました。
エレン・ルイーズ・アクソンは、ウッドロウ・ウィルソン大統領の最初の妻であり、画家・ファーストレディとして活躍した女性です。ジョージア州の長老派牧師の家庭に生まれ、芸術を学んだ後にウィルソンと結婚。ホワイトハウス入り後は、ワシントンD.C.のスラム街の住環境改善や黒人コミュニティの生活水準向上を目指す社会運動を積極的に支援しました。彼女の発案による住宅改善法案は、1914年の彼女の死後に成立しました。
トーマス・ウッドロウ・ウィルソンは、第28代米国大統領を務めた政治学者・政治家です。南北戦争後の南部出身者として初の受賞者となるノーベル平和賞を受賞。第一次世界大戦初期は中立を維持しつつも、1917年に参戦を決断しました。戦後は「十四ヵ条の平和原則」を提唱し、パリ講和会議にて世界初の集団安全保障機構である国際連盟の設立に寄与しました。国内では中央銀行制度(FRB)の設立など数々の改革を進めました。
ジェームズ・ウッドロウは、長老派牧師・科学者であり、ウッドロウ・ウィルソン大統領の叔父にあたる人物です。ドイツのハイデルベルク大学で自然科学の博士号を取得後、コロンビア神学校で教授を務めました。キリスト教神学と進化論の調和を主張したことで保守派から激しい反発を受け、「ウッドロウ論争」と呼ばれる思想的対立を巻き起こしました。後にサウスカロライナ大学学長に就任し、南部の高等教育と知的好奇心の普及に尽力しました。
ウッドロウ・ウィルソン大統領とその家族は、第一次世界大戦期の米国の外交・内政に深く関わりました。最初の妻エレンはホワイトハウスの改革や社会運動に取り組み、1914年の死は夫に大きな影響を与えました。後妻のエディスは、大統領が大戦後のパリ講和会議から帰国後に脳脳卒中で倒れた際、事実上の秘密代理人として文書の選別や面会制限を行い、国政運営を代行。一族は巨大な外交決定の裏で政権の中核を支えました。
19世紀末の米西戦争から第一次世界大戦にかけて、米国の対外膨張政策と軍縮・参戦は南部の経済と政治的地位を大きく変容させました。元南軍将校のジョセフ・ウィーラーらの米西戦争参戦は南北の真の和解を象徴。南北戦争以来の南部出身大統領ウッドロウ・ウィルソンは政権内に南部議員を結集させ、軍事基地の開設や軍需特需を呼び込みました。これにより南部経済の近代化が進み、連邦内での復権と国際社会への接続を果たしました。