『教会統治論』を著し「中道」の礎を築いた神学者
デヴォン州出身の国教会神学者。エリザベス朝後半期を代表する知性であり、主著『教会統治の法について(Of the Laws of Ecclesiastical Polity)』を執筆した。聖書の記述のみならず理性や伝統、歴史的経験を重視する神学体系を提示し、清教徒の急進主義とローマ・カトリック双方に対峙した。後世において「アングリカン・ヴィア・メディア(中道)」の思想的基礎を築いた人物として評価される。
デヴォン州出身の国教会神学者。エリザベス朝後半期を代表する知性であり、主著『教会統治の法について(Of the Laws of Ecclesiastical Polity)』を執筆した。聖書の記述のみならず理性や伝統、歴史的経験を重視する神学体系を提示し、清教徒の急進主義とローマ・カトリック双方に対峙した。後世において「アングリカン・ヴィア・メディア(中道)」の思想的基礎を築いた人物として評価される。
デヴォン州出身の神学者。メアリー1世の迫害を逃れて大陸へ亡命し、エリザベス1世即位後に帰国してソールズベリー司教に就任した。1562年に著した代表作『イングランド国教会の弁明(Apologia Ecclesiae Anglicanae)』では、ローマ・カトリックに対する国教会の教義的妥当性を体系的に論証し、初期エリザベス朝における国教会正当化の理論的支柱となった。
リンカンシャー出身の歴史家・神学者。ヘンリー8世末期にオックスフォード大学を去り改革派として活動、メアリー1世の治世下ではヨーロッパ大陸へ亡命して迫害史の執筆に没頭した。エリザベス1世の即位後に帰国し、1563年に『フォックスの殉教者の書(Actes and Monuments)』を刊行。同書は英国内で広く読まれ、イングランドにおけるプロテスタント意識の形成に強い影響を与えた。
グロスターシャー出身の聖書学者・言語学者。ギリシャ語やヘブライ語の原典から直接英語へ翻訳する作業に尽力し、1526年に印刷版の『英語新約聖書』を刊行した。彼の簡潔で力強い翻訳表現は後の『キング・ジェームズ訳』をはじめとする英語聖書や英語表現そのものに多大な影響を与えた。カトリック諸国や英王権から追われ、1535年にアントウェルペンで捕縛され翌年火刑に処された。
ノッティンガムシャー出身の神学者。1533年にカンタベリー大主教に就任し、ヘンリー8世の婚姻無効宣言を主導した。エドワード6世の治世には英語による礼拝改革を力強く推し進め、国教会の基本的礼拝書である『祈祷書』の作成や42箇条(後の39箇条)の制定を主導した。メアリー1世の時代に異端および反逆罪で問われ、1556年にオックスフォードの火刑台でその生涯を閉じた。
レスター近郊出身の聖職者・説教者。ケンブリッジで学びプロテスタント思想へ転向後、ヘンリー8世の宮廷説教者やウスター司教を歴任した。六箇条法に反対し一時辞任・投獄されるも、エドワード6世期には強力な改革派説教者として大衆の信望を集めた。しかしカトリックのメアリー1世即位後に捕らえられ、1555年にオックスフォードでニコラス・リドリーとともに火刑に処された。
ロンドン生まれの法律家・思想家・ルネサンス人文主義者。ヘンリー8世の側近として国務を支え大法官を務めた。1516年には代表作『ユートピア』を公刊し社会や政治のあり方を問うた。一方でカトリックの信仰を貫き、王による教会の首長権承認とローマとの断絶に反対して不服従を貫いた。宣誓拒否により反逆罪で問われ、1535年にタワー・ヒルで斬首された。
ヨークシャー出身のカトリック聖職者・神学者。ケンブリッジ大学総長を務め学問の発展に尽力した。宗教改革期にはルター派を批判し、ヘンリー8世の婚姻無効申請や国王至上権の導入に強く反対した。1534年に至上権承認の宣誓を拒否してロンドン塔に収監され、獄中で枢機卿に任命されたものの、1535年に反逆罪で斬首された。後世カトリック教会によって列聖された。
16世紀のイングランド宗教改革は、ヘンリー8世の婚姻問題を直接の契機としてローマ教皇庁からの離脱を図ったことに始まる。国王至上権の確立による修道院解散や国教会の創設を経て、エドワード6世期の本格的なプロテスタント化、メアリー1世期のカトリック復帰による混乱を経験した。最終的にエリザベス1世のもとで「礼拝統一法」などが整備され、独自のイングランド国教会(アングリカニズム)が形成された。
ヘンリー8世とジェーン・シーモアの間に生まれ、9歳でエドワード6世として即位した。摂政のサマセット公やノーサンバランド公の支援のもと、クランマー大主教とともに本格的なプロテスタント改革を推進し、『祈祷書』の発行や礼拝の英語化を進めた。英明で将来を嘱望されたものの、わずか15歳で病没し、その短い治世は後の継承問題を呼ぶこととなった。
アン・ブーリンを母に持ち、半世紀近くにわたりイングランドを統治した。首長法と礼拝統一法により「エリザベス朝宗教定案」を確立して国教会を安定させ、1588年にはスペインの無敵艦隊を撃破した。文化面でもシェイクスピアらが活躍する英文学の黄金期を開花させ、未婚を貫き「処女王」として国民の絶大な支持を集め、強大な国家の基礎を固めた。
キャサリン・オブ・アラゴンを母に持ち、即位後にイングランドをカトリック信仰へと復帰させた。スペイン皇太子フェリペ(のちのフェリペ2世)と結婚し、プロテスタントに対する厳しい弾圧を行ったことから「ブラッディ・メアリー(血のメアリー)」の異名で知られる。フランスとの戦争でカルーを失うなど多難な治世であったが、女王としての統治の先例を打ち立てた。
ヘンリー8世として即位し、キャサリン・オブ・アラゴンとの婚姻無効問題を契機にローマ教会と決別した。国王至上権を確立してイングランド国教会を創設し、修道院解散など大胆な宗教改革と王権強化を推進した。6度の結婚や政敵の処刑など強権的な統治を行う一方、海軍の増強や宮廷文化の振興にも力を注ぎ、テューダー朝の基盤を強固にした。
ルネサンス期のイングランド王室は、テューダー朝の下で中央集権化と絶対王政の確立を進めた。ヘンリー8世によるローマ教皇庁との断絶とイングランド宗教改革を機に、王権と国家の結びつきが劇的に強化された。続く君主たちの下でカトリックとプロテスタントの間を揺れ動きつつも、独自の宗教 settlement と外交政策を展開し、中世的な封建国家から近代的な主権国家へと脱皮する決定的な時代となった。
冷戦期の米南部は、人種差別撤廃を求める公民権運動の大波と、政治的再編の渦中にありました。キング牧師らの非暴力抵抗運動が最高潮に達し、1964年公民権法や1965年投票権法の成立を結実させた一方、白人保守層の反発は「南部戦略」を通じて共和党への支持転換を生み出しました。伝統的な差別構造の解体と新南部の産業化・政治的保守化が同時に進行し、現代アメリカの社会・政治構造を形作る重要な転換点となりました。