越相同盟―上杉・北条の軍事協調
1569年に成立した越相同盟は、越後の上杉謙信と関東の北条氏が武田信玄に対抗するため結んだ軍事・外交同盟である。1570年前後、両氏は武田氏の勢力拡大を警戒し、関東や越後周辺で軍事行動を展開した。謙信は北条氏への支援を通じて関東への影響力を維持し、北条氏も武田氏への対抗を進めた。しかし両者の利害は完全には一致せず、武田氏との関係改善などを背景に同盟関係は次第に弱まった。越相同盟をめぐる軍事行動は、上杉・北条・武田による三つ巴の勢力争いを象徴する出来事である。
1569年に成立した越相同盟は、越後の上杉謙信と関東の北条氏が武田信玄に対抗するため結んだ軍事・外交同盟である。1570年前後、両氏は武田氏の勢力拡大を警戒し、関東や越後周辺で軍事行動を展開した。謙信は北条氏への支援を通じて関東への影響力を維持し、北条氏も武田氏への対抗を進めた。しかし両者の利害は完全には一致せず、武田氏との関係改善などを背景に同盟関係は次第に弱まった。越相同盟をめぐる軍事行動は、上杉・北条・武田による三つ巴の勢力争いを象徴する出来事である。
1570年代の越中・能登では、上杉謙信と織田信長の勢力が北陸支配をめぐって激しく対立した。上杉氏は越中・能登への進出を続け、越中の一向一揆勢力や能登の畠山氏などをめぐる争いにも介入した。一方、織田氏は柴田勝家らを北陸へ派遣し、越前を拠点に加賀・能登・越中方面へ勢力を拡大した。1577年の手取川の戦いでは上杉軍が織田軍を破ったとされるが、謙信の死後は織田氏が攻勢を強めた。これらの戦いは北陸の勢力図を大きく変化させた。
1546年、武蔵国河越城をめぐり、北条氏康と山内・扇谷両上杉氏、古河公方足利晴氏らの連合軍が激突した。連合軍は河越城を長期包囲していたが、氏康は夜襲を敢行し、少数の精鋭で敵陣を急襲した。油断していた連合軍は大混乱に陥り、大敗を喫したとされる。この戦いで扇谷上杉氏は滅亡し、山内上杉氏も関東での勢力を大きく失った。一方、北条氏康は武蔵を中心とする支配を強化し、北条氏が関東最大の戦国大名へ成長する重要な転機となった。
1530年代から1550年代にかけて、関東では後北条氏の勢力拡大に対し、山内上杉氏・扇谷上杉氏らが抵抗を続けた。北条氏綱・氏康は武蔵国を中心に勢力を広げ、江戸城や河越城などを攻略して関東支配を強化した。上杉氏は古河公方や関東諸将と連携して北条氏に対抗し、1537年の河越城奪回戦や1546年の河越夜戦などで激しく争った。しかし河越夜戦で北条氏康が大勝すると上杉氏の勢力は大きく後退し、北条氏が関東の有力勢力として台頭する転機となった。
1455年頃から1483年頃まで続いた享徳の乱は、鎌倉公方・足利成氏と関東管領・上杉氏の対立を軸として、関東各地の諸勢力が争った大規模な内乱である。成氏は上杉氏と対立して鎌倉を追われ、古河を拠点に古河公方として勢力を維持した。一方、上杉氏は山内・扇谷両家に分かれながら成氏と対抗した。幕府も介入して長期化し、関東の政治秩序は大きく動揺した。この乱を通じて在地武士の自立が進み、後の戦国時代における関東の群雄割拠につながった。
耳川の戦いは、1578年に日向国で島津氏と大友氏が激突した戦いです。日向へ進出した島津義久に対し、大友宗麟は日向奪回を目指して大軍を派遣しました。両軍は高城川・耳川周辺で戦い、島津軍は釣り野伏などの戦法を駆使して大友軍を大きく破りました。大友軍は退却時に多数の死者を出し、大友氏の勢力は急速に衰退しました。一方、島津氏は九州南部から中部へ勢力を拡大し、九州制覇を目指す重要な転機となりました。
戦国時代の九州では、大友氏・龍造寺氏・島津氏を中心に有力大名が勢力を争い、各地で激しい戦闘が繰り広げられた。大友宗麟は豊後を拠点に北九州へ勢力を拡大し、龍造寺隆信は肥前を中心に勢力を伸ばした。一方、島津義久らは薩摩から九州統一を目指し、耳川の戦いなどで大友軍を破って勢力を拡大した。1587年の豊臣秀吉による九州征伐で島津氏は降伏し、九州の戦国争乱は終息へ向かった。その後、秀吉による国分が行われ、九州の大名配置も大きく変化した。
1615年、徳川家康は大坂冬の陣後も対立が続いた豊臣秀頼を討つため、再び大坂城を包囲した。豊臣方には真田信繁(幸村)らが集結し、道明寺・八尾・若江など各地で激戦が繰り広げられた。最終決戦となった天王寺・岡山の戦いでは豊臣軍が奮戦したものの、徳川軍の圧倒的な兵力に敗れた。大坂城は落城し、秀頼と淀殿は自害して豊臣氏は滅亡した。これにより徳川家康の天下支配が確立し、戦国時代から江戸時代への移行が決定的となった。
1592年から1598年にかけて、豊臣秀吉は明への進出を目指し、朝鮮半島へ大規模な軍勢を派遣した。文禄の役では日本軍が朝鮮各地を急速に進撃したものの、李舜臣率いる朝鮮水軍の抵抗や明軍の参戦によって戦況は次第に膠着した。講和交渉が決裂すると1597年に慶長の役が始まり、日本軍と明・朝鮮連合軍との戦闘が再開された。1598年、秀吉の死を受けて日本軍は撤退し、戦役は終結した。長期にわたる戦争は日本・朝鮮・明の各国に大きな人的・経済的被害をもたらした。
戦国時代の中部地方では、織田信長、徳川家康、武田信玄、上杉謙信、今川義元ら有力大名が勢力を争った。尾張では信長が勢力を拡大し、美濃を攻略して天下統一への足掛かりを築いた。甲斐の武田氏は信濃・駿河・遠江へ進出し、上杉氏と川中島で激突した。東海では桶狭間の戦い、三方ヶ原の戦い、長篠の戦いなどが起こり、各地の勢力図が大きく変化した。最終的に信長・秀吉を経て徳川家康が天下を統一し、中部地方は江戸幕府成立の重要な舞台となった。
1583年、織田信長の死後に生じた後継者争いの中で、羽柴秀吉と柴田勝家が近江国賤ヶ岳周辺で激突した。勝家方は北陸の諸将を率いて攻勢をかけたが、秀吉は美濃からの迅速な大返しによって戦場へ戻り、反撃を開始した。戦いでは加藤清正や福島正則ら「賤ヶ岳の七本槍」が活躍し、秀吉軍が勝利を収めた。敗れた勝家は北ノ庄城で自害し、この勝利によって秀吉は織田家中での主導権を確立し、天下統一への道を大きく切り開いた
1582年、織田信長は徳川家康や北条氏政らと連携し、甲斐・信濃を支配する武田勝頼の討伐を開始した。長篠の戦い以降、武田氏は有力家臣の離反や領国支配の動揺によって弱体化していた。織田・徳川連合軍の大規模侵攻を受けた勝頼は新府城を放棄して退却したが、天目山で追い詰められ自害した。これにより名門武田氏は滅亡し、戦国時代の勢力図は大きく変化した。この戦役は織田政権の最盛期を象徴する軍事行動である。
1579年と1581年、織田信長は自治的な国人勢力が支配する伊賀国の制圧を目指して二度にわたり伊賀攻めを実施した。第一次伊賀攻めでは織田信雄軍が地形に精通した伊賀勢の抵抗を受けて大敗した。しかし1581年の第二次伊賀攻めでは、信長が大軍を動員して多方面から侵攻し、伊賀の諸勢力を圧倒した。これにより伊賀の独立的な自治体制は終焉を迎え、織田氏の支配下に組み込まれた。伊賀攻めは戦国期の地域自治勢力の終焉を象徴する戦いとして知られる。
1578年、織田信長の重臣であった荒木村重は突如として離反し、摂津国の有岡城を拠点に反旗を翻した。村重は石山本願寺や毛利氏との連携を模索し、織田政権に対抗したが、信長は明智光秀や羽柴秀吉らを動員して討伐軍を編成した。有岡城は長期包囲の末に陥落し、村重は脱出したものの勢力は壊滅した。この戦いにより織田氏の畿内支配は一層強化され、本願寺勢力の孤立も進むこととなった。
1575年、織田信長は朝倉氏滅亡後も越前国で強い影響力を持っていた一向一揆勢力の討伐を進めた。越前では本願寺門徒を中心とする一揆が自治的な支配を行い、織田政権の統治に抵抗していた。信長は柴田勝家らを派遣して大規模な軍事行動を展開し、一揆勢の拠点を次々と攻略した。これにより越前の一向一揆は鎮圧され、織田氏による北陸支配の基盤が整えられた。この戦いは信長の領国統治強化を象徴する重要な討伐戦である。