刀禰坂の戦い―朝倉氏滅亡への敗走戦
1573年、織田信長は越前の朝倉義景を討つため大軍を率いて進軍した。朝倉軍は一乗谷への撤退を図ったが、近江国と越前国の境に近い刀禰坂で織田軍の追撃を受けた。戦いでは織田軍が優勢となり、多くの朝倉方武将や兵が討たれたことで朝倉軍は大きく崩壊した。その後、信長は一乗谷を攻略し、朝倉義景は自害して朝倉氏は滅亡した。刀禰坂の戦いは、戦国大名朝倉氏の終焉を決定づけた重要な合戦として知られている。
1573年、織田信長は越前の朝倉義景を討つため大軍を率いて進軍した。朝倉軍は一乗谷への撤退を図ったが、近江国と越前国の境に近い刀禰坂で織田軍の追撃を受けた。戦いでは織田軍が優勢となり、多くの朝倉方武将や兵が討たれたことで朝倉軍は大きく崩壊した。その後、信長は一乗谷を攻略し、朝倉義景は自害して朝倉氏は滅亡した。刀禰坂の戦いは、戦国大名朝倉氏の終焉を決定づけた重要な合戦として知られている。
1570年、織田信長は摂津国の野田城・福島城を攻撃し、石山本願寺勢力との対立を本格化させた。両城は三好三人衆と本願寺方の重要拠点であり、信長は畿内支配の強化を目指して攻略を試みた。しかし本願寺顕如の呼びかけに応じた一向一揆勢や各地の反織田勢力が抵抗し、戦況は膠着した。さらに浅井・朝倉軍の挙兵によって信長は撤退を余儀なくされた。この戦いは後の石山合戦へと発展する織田・本願寺抗争の出発点となった。
1567年、織田信長は美濃国の斎藤龍興が拠る稲葉山城を攻略し、長年にわたる美濃攻めを完遂した。信長は西美濃三人衆ら有力国衆の調略に成功し、斎藤氏の内部結束を崩したうえで総攻撃を実施した。難攻不落とされた稲葉山城は陥落し、龍興は伊勢方面へ逃亡した。これにより信長は美濃全域を支配下に置き、城下を「岐阜」と改称して天下統一への拠点とした。この勝利は信長の勢力拡大を決定づけた重要な転機である。
1563年、織田信長は美濃国攻略を進める中で、新加納周辺において斎藤龍興方の軍勢と激突した。斎藤氏はなお強い抵抗力を保持しており、織田軍は美濃国内への進出を図りながら各地で攻防を繰り返していた。新加納の戦いでは斎藤軍の反撃を受け、織田軍は苦戦を強いられたとされる。この戦いは信長の美濃平定が容易ではなかったことを示す一例であり、その後も調略や軍事行動を重ねながら、最終的な稲葉山城攻略へとつながっていった。
1561年、織田信長は美濃国への侵攻を進める中で、森部付近において斎藤龍興方の軍勢と交戦した。斎藤義龍の死後、若年の龍興が家督を継いだことで斎藤氏の統制力は弱まりつつあり、信長はその機を捉えて美濃攻略を本格化させた。森部の戦いでは織田軍が優位に戦いを進め、国境地帯での影響力を拡大した。この勝利は美濃国内の反織田勢力を揺さぶる契機となり、後の稲葉山城攻略と美濃平定へ向けた重要な足掛かりとなった。
1560年前後の北近江では、浅井長政の父・浅井久政の時代から続く六角氏との対立が激化し、浅井氏は北近江支配の強化を進めた。野良田の戦いなどで浅井軍は六角軍を破り、南近江の有力大名であった六角氏の影響力を後退させた。これにより浅井氏は北近江の実権を確立し、戦国大名として大きく成長した。その後、浅井長政は織田信長と同盟を結び、近江・畿内情勢に大きな影響を与える存在となった。北近江侵攻はその飛躍の重要な契機となった。
1556年、美濃国の長良川周辺で斎藤道三とその嫡子・斎藤義龍が激突した。家督継承や家中の主導権をめぐる対立が深まり、義龍は有力家臣の支持を得て父に反旗を翻した。戦いは義龍軍の優勢のうちに進み、道三は奮戦したものの討死した。これにより義龍は斎藤氏の当主として美濃支配を確立し、戦国大名としての地位を固めた。一方、道三と同盟関係にあった織田信長は重要な後ろ盾を失い、その後の美濃攻略に向けて新たな戦略を迫られることとなった。
1547年頃、美濃国の実力者であった斎藤道三は、守護土岐頼芸が拠る大桑城を攻撃し、美濃支配の最終段階を進めた。土岐氏は室町時代以来の美濃守護家であったが、道三の勢力拡大によって次第に権力を失っていた。大桑城の陥落により頼芸は美濃から追放され、土岐氏の支配は事実上終焉を迎えた。この戦いによって斎藤道三は美濃国の実権を完全に掌握し、後の戦国大名としての地位を確立する重要な転機となった。
1579年、徳川家康の正室・築山殿と嫡男・松平信康が武田氏との内通を疑われたことで発生した事件である。織田信長からの疑念も背景にあり、家康は苦渋の決断として築山殿を処刑し、信康にも切腹を命じた。内通の実態については不明な点が多く、後世まで議論が続いている。この事件は徳川家中に大きな衝撃を与えただけでなく、家康の政治的立場や織田・徳川同盟の維持にも深く関わった戦国時代を代表する悲劇的事件である。
1568年、武田信玄は長年の同盟相手であった今川氏との関係を破棄し、駿河国へ侵攻した。今川義元の死後、当主今川氏真の勢力が衰退していたことが背景にあった。武田軍は駿府をはじめ各地を制圧し、今川氏は大きく後退した。一方で徳川家康も遠江へ進出し、今川領の分割が進んだ。この侵攻によって甲相駿三国同盟は崩壊し、東海・関東の勢力図は大きく変化した。駿河侵攻は武田氏の最大版図形成の重要な契機となった。
1600年、関ヶ原の戦いに先立ち、真田昌幸・信繁(幸村)父子は上田城に籠もり、徳川秀忠率いる大軍を迎え撃った。徳川軍は中山道を進軍して西軍討伐に向かう途中で上田城を攻撃したが、真田軍の巧みな防御戦術と地形利用に苦しめられ、多くの損害を出して攻略に失敗した。その結果、秀忠軍は関ヶ原本戦への到着が遅れた。上田城の戦いは少数の兵で大軍を翻弄した真田氏の知略を示す戦いとして広く知られている。
1570年代、武田信玄・勝頼父子は西上作戦や領土拡張を進め、三河・遠江へたびたび侵攻した。これに対し徳川家康は織田信長と連携し、防衛と反攻を展開した。三方ヶ原の戦いでは武田軍が大勝したが、信玄の死後は戦況が変化し、長篠の戦いで武田軍は大きな打撃を受けた。その後も高天神城をめぐる攻防などが続き、最終的に徳川氏が遠江支配を確立した。これら一連の対武田戦は、家康の軍事的成長と勢力拡大の重要な転機となった。
1577年頃、徳川家康は遠江支配の強化を進める中で、武田氏の勢力下にあった横須賀周辺への圧力を強めた。遠江横須賀の戦いは、武田氏と徳川氏が遠江東部の支配権を争った一連の軍事行動の総称として位置付けられる。徳川軍は周辺拠点への攻撃や包囲を重ねて勢力を拡大し、武田方の影響力を徐々に後退させた。この戦いは後の高天神城攻略へとつながる重要な前哨戦となり、徳川氏の遠江支配確立に大きく寄与した。
1572年、甲斐の武田信玄は西上作戦の一環として遠江へ進軍し、浜松城の徳川家康を圧迫した。家康は織田信長の援軍とともに迎撃を試みたが、静岡県浜松市付近の三方ヶ原で武田軍の騎馬隊と巧みな戦術に敗北した。この戦いで徳川軍は大きな損害を受け、家康自身も辛うじて浜松城へ退却した。三方ヶ原の戦いは武田信玄の軍事的才能を示す代表的な戦いとして知られ、後の徳川家康の成長と天下統一への教訓となった重要な合戦である。
桶狭間の戦いは1560年、尾張へ侵攻した今川義元軍に対し、織田信長が圧倒的な兵力差を覆して勝利した戦いである。豪雨を利用した奇襲により義元を討ち取り、信長は一躍全国にその名を知られる存在となった。この勝利によって今川氏は急速に衰退し、徳川家康(松平元康)の独立にも大きな影響を与えた。戦国時代を代表する「少数による大軍撃破」の象徴として語り継がれ、天下統一への第一歩となった歴史的な合戦である。