長島一向一揆討伐―信長の苛烈な鎮圧
1574年から1575年にかけて、織田信長は伊勢長島を拠点とする一向一揆勢力の討伐を断行した。長島一向一揆は本願寺勢力や反織田勢力と結びつき、たびたび織田軍を苦しめていた。信長は大軍を動員して周辺を包囲し、水陸両面から攻撃を実施した。最終的に砦や寺院を制圧し、一揆勢を壊滅させたことで伊勢・尾張周辺の支配を安定させた。この討伐は織田政権による中央集権化の過程を象徴する戦いとして知られている。
1574年から1575年にかけて、織田信長は伊勢長島を拠点とする一向一揆勢力の討伐を断行した。長島一向一揆は本願寺勢力や反織田勢力と結びつき、たびたび織田軍を苦しめていた。信長は大軍を動員して周辺を包囲し、水陸両面から攻撃を実施した。最終的に砦や寺院を制圧し、一揆勢を壊滅させたことで伊勢・尾張周辺の支配を安定させた。この討伐は織田政権による中央集権化の過程を象徴する戦いとして知られている。
1556年、尾張国稲生で織田信長と弟の織田信行との間に家督をめぐる戦いが起こった。信行は柴田勝家や林秀貞ら有力家臣の支持を受け、信長に対抗したが、信長は自ら軍を率いてこれを迎え撃った。戦いは激戦となったものの、信長軍が勝利し、信行方は敗走した。この勝利によって信長は尾張国内での主導権を確立し、家中の反対勢力を抑えることに成功した。稲生の戦いは、後の天下統一事業へとつながる織田信長飛躍の重要な転機となった。
1550年代後半から1561年にかけて、織田信長は尾張統一を進めながら美濃国の斎藤氏との攻防を繰り広げた。1556年の長良川の戦いで斎藤道三が討たれると、斎藤義龍が美濃を掌握し、信長の侵攻を幾度も退けた。森部の戦いや国境地帯での小競り合いを通じて信長は美濃への足掛かりを築こうとしたが、決定的な成果は得られなかった。しかし義龍の死後、斎藤氏の結束は弱まり、後の美濃攻略と稲葉山城陥落への道が開かれていった。
1542年(天文11年)、尾張の織田信秀は勢力拡大を目指して美濃国へ侵攻し、斎藤道三の本拠に迫った。加納口付近で行われた戦いでは、当初織田軍が優勢に進軍したものの、道三は機動的な反撃を行い、織田軍を混乱に陥れた。結果として信秀軍は大きな損害を受けて撤退し、道三は美濃支配を維持することに成功した。この勝利によって道三の名声はさらに高まり、「美濃のマムシ」と称される戦国大名としての地位を確立する重要な戦いとなった。
1582年、織田信長は徳川家康や北条氏政らと連携し、甲斐・信濃の武田勝頼を討つため甲州征伐を開始した。長篠の戦い以降弱体化していた武田氏は、有力家臣の離反や相次ぐ敗北によって防衛力を失っていた。織田・徳川連合軍の大規模侵攻を受けた勝頼は新府城を放棄して退却したが、天目山付近で追い詰められ自害した。これにより戦国最強と謳われた武田氏は滅亡し、甲斐・信濃の勢力図は大きく変化した。
1574年、武田勝頼は遠江国の要衝である高天神城を攻略するため大軍を動員した。高天神城は徳川家康の支配下にあり、遠江支配の重要拠点であった。武田軍は周辺を包囲して補給路を断ち、激しい攻防の末に城主小笠原長忠らを降伏させて城を奪取した。この勝利によって勝頼は父・信玄の後継者としての威信を高め、武田氏の勢力は最盛期を迎えた。一方で徳川氏は大きな打撃を受け、後の奪還作戦へとつながる転機となった。
1554年、甲斐の武田晴信(信玄)、相模の北条氏康、駿河の今川義元は婚姻関係を基盤として甲相駿三国同盟を成立させた。これにより三氏は相互不可侵と協力体制を築き、それぞれ周辺地域への進出に専念できるようになった。同盟は戦国時代屈指の強固な外交関係として知られ、東国情勢の安定に大きな影響を与えた。しかし義元の戦死や勢力関係の変化によって次第に亀裂が生じ、後に武田氏の駿河侵攻によって事実上崩壊した。
1553年から1564年にかけて、武田信玄と上杉謙信は信濃国川中島をめぐり五度にわたって激突した。両者は北信濃の支配権確保を目指して対立し、とくに1561年の第四次川中島の戦いでは激戦が繰り広げられた。謙信が信玄の本陣へ斬り込んだという逸話も広く知られている。決定的な勝敗はつかなかったものの、多くの将兵が戦死し、両軍に大きな損害を与えた。この一連の戦いは戦国時代を象徴する名勝負として現在も語り継がれている。
1548年、武田信玄は信濃攻略を進める中で、村上義清率いる信濃勢と上田原で激突した。武田軍はそれまで順調に勢力を拡大していたが、この戦いでは村上軍の巧みな迎撃を受けて苦戦し、重臣の板垣信方や甘利虎泰ら有力武将を失う大打撃を受けた。結果として武田軍は敗北し、信濃支配の進展は一時停滞した。しかし信玄は軍制改革や家臣団の再編を進め、この敗戦を教訓として後の飛躍につなげた。戦国史に残る武田氏の重要な転換点である。
1515年から1517年頃にかけて行われた大井合戦は、甲斐守護・武田信虎と有力国人である大井氏との間で繰り広げられた一連の戦いである。大井氏は甲斐西郡に強い勢力を持ち、武田氏の国内統一に対する有力な抵抗勢力であった。信虎は軍事行動を重ねて大井氏を圧迫し、最終的にその勢力を服属・弱体化させることに成功した。この戦いにより武田氏の甲斐支配は大きく前進し、後の武田信玄による領国拡大の基盤が築かれた。
1508年の坊峰合戦は、甲斐国で続いていた武田氏一族と有力国人勢力の抗争の中で行われた戦いである。当時の甲斐では守護武田氏の統制力が弱まり、各地で勢力争いが激化していた。坊峰周辺での戦闘は、武田信虎が国内統一を進める過程における重要な軍事行動の一つとされ、反対勢力の抑制に寄与した。戦後、信虎は徐々に甲斐国内での支配権を強化し、後の武田信玄へと受け継がれる戦国大名武田氏の基盤形成を進めていった。
1465年頃の夕狩沢合戦は、甲斐国で続いていた武田氏一族や有力国人勢力の対立の中で行われた戦いである。室町時代後期の甲斐では守護武田氏の権威が揺らぎ、家督争いや家臣団の抗争が頻発していた。夕狩沢合戦もそうした内乱の一局面として発生し、国内の政治的混乱を象徴する出来事となった。これらの争いは武田氏の支配力を弱める一方で、後に武田信虎が国内統一を進める契機ともなり、戦国大名武田氏成立への背景を形成した。
1457年頃の小河原合戦は、甲斐国で続いていた武田氏内部の家督争いと有力国人層の対立の中で発生した戦いである。室町時代後期の甲斐では守護武田氏の統制力が弱まり、一族や家臣団がそれぞれ勢力拡大を図っていた。小河原合戦はこうした内紛の一局面として位置付けられ、武田氏の支配基盤の不安定さを示した。その後も甲斐では抗争が続いたが、後世に武田信虎・信玄父子が国内統一を進める土台となる歴史的背景の一つとなった。
16世紀前半の美濃国では、守護土岐氏の権威が衰える一方、守護代や重臣層が実権を争い、激しい権力闘争が続いた。なかでも斎藤道三は巧みな政治力と軍事力によって勢力を拡大し、土岐頼芸を追放して美濃の実権を掌握した。大桑城の戦いなどを経て守護体制は崩壊し、美濃は戦国大名による支配へ移行した。この一連の争乱は後の斎藤氏政権の成立と、織田信長による美濃攻略へとつながる戦国史上重要な転換点となった。
本能寺の変は1582年、京都の本能寺で明智光秀が主君・織田信長に突如反旗を翻した事件である。中国地方へ出陣する羽柴秀吉の援軍に向かう途中、光秀は進路を変えて本能寺を急襲し、信長は自害した。天下統一を目前にした信長の死は戦国時代の勢力図を一変させ、その後、秀吉が山崎の戦いで光秀を討って実権を掌握した。謀反の動機には諸説があり、日本史最大の謎の一つとして現在も多くの研究が続けられている。