ドルゴンと清の入関を成し遂げた摂政王
順治帝の摂政として実権を握り、清の中国本土支配を推し進めた指導者。李自成に北京を追われた明の残党や呉三桂を利用して山海関を突破し、北京へ入城して清の首都とした。髪型を強制する「剃髪令」などを断行し、中華全土の平定と清朝支配体制の基礎を強固に築き上げた。
順治帝の摂政として実権を握り、清の中国本土支配を推し進めた指導者。李自成に北京を追われた明の残党や呉三桂を利用して山海関を突破し、北京へ入城して清の首都とした。髪型を強制する「剃髪令」などを断行し、中華全土の平定と清朝支配体制の基礎を強固に築き上げた。
明末の極度な困窮と社会不安の中で台頭した農民反乱の最高指導者。「順」を建国し、北京を攻略して崇禎帝を自殺に追い込み、明朝を滅亡させた。しかし直後に清と結んだ呉三桂に敗北し、短期間で政権は崩壊。明清交代の直接的な引き金となった歴史的キーパーソンである。
明末の飢饉と混乱の中で立ち上がった農民反乱の指導者の一人。李自成と並ぶ二大勢力として明軍を翻弄し、四川地方を占領して「大西政権」を樹立した。その残虐な統治と過激な破壊行動は後世に大きな衝撃を与え、明朝の弱体化と清の進出を加速させる要因となった。
明末の混乱期において、清の侵攻から北方国境を防衛した名将。紅夷大砲を導入して寧遠城の戦いなどで後金の軍勢を撃退し、ヌルハチの攻勢を阻んだ。圧倒的な軍事的手腕で明の防衛線(関寧防線)を維持したが、反間計に落ちた崇禎帝により処刑される悲劇的な最期を遂げた。
女真族の部族を統一し、後の清朝の礎となる「後金」を建国した英雄。独自の軍事・社会組織である「八旗制」を創設し、満洲文字を制定して民族の結束を図った。サルフの戦いなどで明軍を打ち破り、東アジアの勢力図を激変させた。その遺志は子孫に引き継がれ、後の清による中国大陸支配へと繋がっていく。
明代中期の嘉靖年間、沿海部を荒らしまわった倭寇の撃退で絶大な成果を上げた名将が戚継光である。紀律厳正な義勇軍「戚家軍」を組織し、集団戦術「鴛鴦陣」を考案して圧倒的な勝利を重ねた。後に北方国境の防備にも任じられ、長城の改修や防衛体制の強化に尽力。明の軍事改革と治安定着に大きな足跡を残した。
北宋滅亡後の混乱期、抗金闘争の英雄として活躍したのが南宋の名将・岳飛である。抜群の軍事指揮能力と厳格な軍紀を誇る「岳家軍」を率い、金軍の侵攻を幾度も退けて南宋の防衛に大きく貢献した。しかし、主和派の宰相・秦檜らとの対立により冤罪を着せられ無念の死を遂げた。その忠義と武勇は後世まで称えられ、中国史上最も尊敬される愛国者の一人として語り継がれている。
明代末期は内憂外患が深刻化した時代である。農民反乱の多発や財政難、東林党と宦官の対立といった政治的混乱に加え、東北部では満州族が勢力を拡大した。李自成による北京攻略で明が滅亡すると、山海関を守る呉三桂の手引きで清軍が中原へ進出。南明政権による抵抗や鄭成功の反清復明運動も展開されたが、順治帝やドルゴンの指導のもと清が中国全土の支配を確立し、東アジアの国際秩序は大きく塗り替えられた。
17・18世紀の北米植民地時代は、英国等からの移民、信仰の自由、経済動向が複雑に交錯した形成期です。ヴァージニア結成やメイフラワー誓約による自治精神の萌芽、フレンチ・インディアン戦争による英国主導権の確立、そして宗教的覚醒運動(大覚醒)が独自のアイデンティティと結束を育みました。一方で、重商主義に基づく課税強化や入植拡大に伴う先住民・黒人奴隷制の激化は、独立への決意と後の国家の土台を固める契機となりました。
1775年から1783年にかけて北米東海岸で戦われたアメリカ独立戦争は、本国イギリスの課税政策に反発した13の植民地が結束して起こした革命戦争です。1776年に独立宣言を採択し、ワシントン将軍の指揮やフランス・スペインの支援を受けて勝利を収めました。1783年のパリ条約で合衆国の独立が承認され、自由と自由主義・民主主義を理念とする史上初の合衆国憲法と近代共和制国家が成立する世界史的転換点となりました。
1562年から1598年にかけてフランス全土で展開されたフランス宗教戦争(ユグノー戦争)は、カトリックとプロテスタント(ユグノー)の深刻な対立に加え、王位継承権を巡る貴族間の争いが混迷を極めた内戦です。サン・バルテルミの屠殺など惨劇が相次ぎましたが、ユグノーの首領から改宗したアンリ4世がブルボン朝を開き、1598年のナントの勅令で信仰の自由を承認。混乱を収束させ、王権神授説に基づく絶対王政の基盤を築きました。
ルネサンス期の西ヨーロッパは、古典文化の再生と人間中心主義を軸に激動の変革を遂げました。イタリアのダ・ヴィンチやミケランジェロらの芸術、メディチ家の後援から始まった運動は、北方のエラスムスら人文主義者やデューラーに波及。活版印刷術の普及が知識革命を加速させました。イタリア戦争などを通じて文化・技術が全欧へ広がり、伝統的教会の権威が揺らぐ中で、近代国家の形成や大航海時代への知的基盤が醸成されました。
14世紀のイタリアから全欧へ波及したルネサンスは、古代ギリシャ・ローマ文化を再生し「人間中心主義」を掲げた知的大運動です。ダ・ヴィンチやラファエロらの芸術が花開いたほか、メディチ家ら有力者の支援やグーテンベルクの活版印刷術の発明が思想・知識の普及を決定づけました。コペルニクスの天動説否定など科学的探求も進展し、中世の宗教的ドグマを打ち破って近代ヨーロッパ形成の思想的・文化的礎となりました。
1546年から1547年にかけて神聖ローマ帝国で戦われたシュマルカルデン戦争は、カトリック勢力を結集した皇帝カール5世と、ルター派のプロテスタント諸侯と同盟都市が激突した宗教戦争です。ミュールベルクの戦いで皇帝派が大勝を収め、同盟を解体させましたが、新教勢力の完全鎮圧には至りませんでした。この抗争は領邦領主の自立化をさらに強め、1555年のアウクスブルクの宗教和議によるルター派公認への布石となりました。
1529年から1530年頃に頂点を迎えたオスマン・ハプスブルク戦争は、スレイマン1世率いるオスマン帝国とカール5世擁するハプスブルク家が中欧の主導権を賭けて対峙した大規模抗争です。1529年の第一次ウィーン包囲を経て、1532年には帝国議会の開催地レーゲンスブルク周辺に東西の大軍勢が集結。オスマン軍の更なる西進は阻まれたものの、主権国家形成や新旧両派の政治的妥協を促し、全欧の政治・宗教勢力図に多大な影響を与えました。