ルドルフ2世:芸術と錬金術の皇帝
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、宮廷をウィーンからプラハ城に移し、芸術・科学・錬金術の世界的中心地へと発展させた。天文学者ケプラーやティコ・ブラーエらを支援し、世界中から珍品や美術品を集めて広大な驚異の部屋を築いた。一方で政治や宗教対立への対応には消極的であり、弟マティアスとの対立や帝国内の不和を招いたが、文化・科学の発展に及ぼした影響は極めて大きい。
ハプスブルク家の神聖ローマ皇帝ルドルフ2世は、宮廷をウィーンからプラハ城に移し、芸術・科学・錬金術の世界的中心地へと発展させた。天文学者ケプラーやティコ・ブラーエらを支援し、世界中から珍品や美術品を集めて広大な驚異の部屋を築いた。一方で政治や宗教対立への対応には消極的であり、弟マティアスとの対立や帝国内の不和を招いたが、文化・科学の発展に及ぼした影響は極めて大きい。
大航海時代において、神聖ローマ帝国は直轄の海外領土を広げる動きこそ限定的だったものの、皇帝ハプスブルク家の広大な家領や婚姻外交を通じてグローバルな交易・文化交流と深く結びついた。帝国領内の商業都市や豪商フッガー家などは世界交易への資金供給や鉱山開発、物流の要として重要な役割を果たした。一方で、帝国は宗教改革や三十年戦争といった内部抗争、さらにはオスマン帝国の侵攻への対応に直面し、多大な軍事・経済的リソースを割くこととなった。ヨーロッパの政治・宗教的動乱の中心地でありながら、世界経済の発展を多角的に支えた重要な存在であった。
ヘプに生まれたヨハン・バルタザール・ノイマンは、18世紀のドイツ・バロックおよびロココ建築を代表する天才建築家・砲兵将校である。マインツやヴュルツブルクの大司教領主らに仕え、軍事工学で培った精緻な計算能力を駆使して、光と空間が劇的に交錯する壮麗な建築空間を生み出した。代表作である「ヴュルツブルクの司教館(レジデンツ)」は、世界最大級の天井フレスコ画を戴く階段の間をはじめ空間芸術の極致と称され、ユネスコ世界文化遺産にも登録されるなど、近世ヨーロッパ建築史に金字塔を打ち建てた。
アイゼナハの音楽一族に生まれたヨハン・ゼバスティアン・バッハは、西洋音楽史上最高の天才の一人であり、「西洋音楽の父」と称される。ライプツィヒのトーマス・カントルなどを務め、伝統的な対位法やポリフォニー技術を極限まで高めると同時に、最新の協奏曲様式を取り入れた。『マタイ受難曲』『マジーノ・カンタータ』といった宗教曲から、『平均律クラヴィーア曲集』『ブランデンブルク協奏曲』などの器楽曲まで巨万の傑作を残し、バロック音楽を集大成して後世のあらゆる西洋音楽に決定的な影響を与えた。
マクデブルク出身のゲオルク・フィリップ・テレマンは、同時代においてバッハやヘンデルを凌ぐ国際的声望を誇った後期バロック音楽の大作曲家である。ハンブルクの音楽監督をはじめ各地で重要職を歴任し、ドイツ、フランス、イタリアの各様式を自在に融合させた多種多様な楽曲を精力的に発表した。作品数は数千曲に及び、史上最も多作な作曲家の一人として知られる。楽譜の自費出版や市民演奏会の推進を通じて音楽の普及にも大きく貢献し、バロックから古典派への過渡期における先駆的役割を果たした。
ジェノヴァで生まれたヨハン・ルーカス・フォン・ヒルデブラントは、ローマで建築を学んだ後、ハプスブルク家に仕えたオーストリア・バロック建築を代表する巨匠建築家である。イタリア・バロックの動的で洗練された装飾性と、北方の重厚な建築美を融合させた華麗な宮廷・宗教建築を手掛けた。プリンツ・オイゲンの夏の離宮として建設されたウィーンの「ベルヴェデーレ宮殿」はその最高傑作として知られ、優美な庭園と調和した空間構成や豪華な室内装飾により、帝国都ウィーンの黄金期を象徴する景観を作り上げた。
ニュルンベルク出身のヨハン・パッヘルベルは、南ドイツ・バロック音楽を代表する作曲家であり、すぐれたオルガニストでもあった。『パッヘルベルのカノン』として親しまれる『3つのヴァイオリンと通奏低音のためのカノンとジーグ ニ長調』の作者として世界的に有名である。コラール前奏曲やフーガの分野で明快な対位法と美しく親しみやすい旋律線を追求し、その簡潔でバランスの取れた様式は後世に大きな影響を与えた。バッハ一族とも親交が深く、J.S.バッハの兄を指導するなど、バッハの音楽的形成にも大きな足跡を残した。
リューベックの聖マリア教会オルガニストとして長年活躍したディートリヒ・ブクステフーデは、北ドイツ・バロック音楽の最高峰とされる作曲家・演奏家である。自由奔放な即興性と厳格な対位法が融合したオルガン曲を数多く遺し、自ら主催した夕べの演奏会「アーベントムジーク」はヨーロッパ中にその名をとどろかせた。若き日のヨハン・ゼバスティアン・バッハやヘンデルが彼の手腕と演奏を学ぶためにリューベックを訪れたエピソードは有名であり、バロック器楽・オルガン音楽の発展において欠かせない先駆的役割を果たした。
バート・ケストリッツに生まれたハインリヒ・シュッツは、ヴェネツィアに留学してジョヴァンニ・ガブリエーリらに師事し、イタリアの最新のバロック様式をドイツに導入した。ドレスデンの宮廷楽長として長年活躍し、三十年戦争の混乱期という困難な状況下においても、合唱曲集『ダヴィデ詩篇集』や『宗教的合唱曲集』など数多くの傑作を創出。ドイツ語の響きと感情を巧みに融合させた独自の対位法や旋律美を築き上げ、後のバッハへと続くプロテスタント教会音楽の基礎を確立した人物として、音楽史上きわめて高く評価されている。
大航海時代から近世にかけてのヨーロッパでは、海外進出や交易の拡大に伴い文化・思想が多様化し、ルネサンスからバロック芸術へと大きく発展した。美術分野では宗教画や神話画に加え、市民階級の台頭により静物画や風俗画などの多様なジャンルが成立。音楽分野では教会音楽の隆盛とともに、オペラや器楽合奏といった新たな表現様式が確立された。また、新大陸やアジアからもたらされた未知のモチーフや装飾技術は西欧の芸術家たちに深いインスピレーションを与え、世界規模の文化交流が芸術の表現表現の幅を爆発的に広げる原動力となった。
プリンツ・オイゲン(サヴォイア公オイゲン)は、パリ生まれでオーストリア・ハプスブルク家に仕えた近代ヨーロッパ屈指の軍事天才である。フランス陸軍への入隊を拒否された後にハプスブルク軍へ入り、1697年のゼンタの戦いでオスマン帝国軍を完敗させて大トルコ戦争の勝利を決定づけた。スペイン継承戦争でもマールバラ公と共に連勝を重ね、ハプスブルク家の領土拡大と軍事的全盛期を支えた。
シャルル5世(ロレーヌ公シャルル5世)は、ウィーン生まれの軍人であり、オーストリア・ハプスブルク家に仕えた優れた名将である。ロレーヌ公国の主権をフランスに奪われつつも軍功を重ね、1683年の第二次ウィーン包囲では救援軍の主力として要衝の防衛や追撃戦で決定的な役割を果たした。その後の大トルコ戦争でもハプスブルク帝国軍の最高司令官としてブダ奪還などで数々の勝利を収め、帝国の反攻を牽引した。
レオポルト1世はウィーン生まれの神聖ローマ皇帝であり、ハプスブルク家君主として長期間在位した。フランスのルイ14世の膨張政策に対抗してアウクスブルク同盟を結成するとともに、1683年の第二次ウィーン包囲では首都を離れつつも連合軍の結集を主導した。大トルコ戦争では優秀な将軍たちを登用してオスマン軍を退け、カルロヴィッツ条約によってハンガリーやトランシルヴァニアを獲得し、ハプスブルク大国の礎を築いた。
カラ・ムスタファ・パシャは、アマスヤ近郊出身のオスマン帝国の政治家・軍人であり、大宰相として実権を握った。帝国領土の拡大を目指してバルカン半島の支配を固め、1683年に約15万の軍勢を率いてオーストリアの首都ウィーンを大規模に包囲した。しかし、長引く包囲戦の末にヤン3世ソビェスキ率いるキリスト教連合軍の挟み撃ちに遭い惨敗を喫した。この敗北の責任を問われ、ベオグラードで処刑された。
ヤン3世ソビェスキは、オレスコ生まれのポーランド・リトアニア共和国の国王である。オスマン帝国の圧迫に対して優れた軍事的才能を発揮し、1683年の第二次ウィーン包囲では、ポーランドの有翼重騎兵(フサリア)を率いて連合軍の総司令官として救援に駆けつけた。カレンベルクの戦いでオスマン軍を壊滅させてウィーンを解放し、キリスト教ヨーロッパの危機を救った英雄として歴史に名を刻んだ。