モーリス・ガムラン
1872年にパリで生まれたモーリス・ガムランは、両大戦間期のフランス陸軍を代表する軍人であり、1939年の第二次世界大戦開戦時に連合軍最高司令官を務めました。第一次世界大戦の教訓から防衛重視の戦略を固持し、巨大な要塞線「マジノ線」に依拠する静観戦術を採りました。しかし、1940年5月にドイツ軍が予想外のアルデンヌ森を突破して侵攻を開始すると、機動戦への対応が大幅に遅れ、連合軍の大混乱を招きました。戦局悪化の責任をとらされる形で解任され、その軍事指導は激しく批判されました。
1872年にパリで生まれたモーリス・ガムランは、両大戦間期のフランス陸軍を代表する軍人であり、1939年の第二次世界大戦開戦時に連合軍最高司令官を務めました。第一次世界大戦の教訓から防衛重視の戦略を固持し、巨大な要塞線「マジノ線」に依拠する静観戦術を採りました。しかし、1940年5月にドイツ軍が予想外のアルデンヌ森を突破して侵攻を開始すると、機動戦への対応が大幅に遅れ、連合軍の大混乱を招きました。戦局悪化の責任をとらされる形で解任され、その軍事指導は激しく批判されました。
1872年にパリの裕福なユダヤ人家庭に生まれたレオン・ブルムは、社会党(SFIO)の指導者として活動し、1936年にフランス初の社会主義者・ユダヤ系の首相に就任しました。ファシズムに対抗する人民戦線内閣を組織し、有給休暇の導入や週40時間労働制など画期的な労働改革を実現しました。第二次世界大戦での敗戦後は、ヴィシー政権によって敗戦の責任を問われリヨム裁判で被告となりましたが、裁判の場で堂々と自説を主張し政権側を圧倒しました。その後強制収容所へ送られるも生還し、戦後も政治家として活動しました。
1867年にブリュッセルで生まれたマキシム・ウェイガンは、第一次世界大戦時にフォッシュ元帥の参謀長として頭角を現した軍人です。1940年5月、ドイツ軍の侵攻によって戦局が窮地に陥る中、ガムランの後任としてフランス軍最高司令官に就任しました。しかし、途絶えかけた前線の崩壊を食い止めることはできず、軍事的な勝利は不可能と判断して政府に早期休戦を強く働きかけました。ヴィシー政権下では国防相や北アフリカ総督を歴任しましたが、連合国やナチス・ドイツ双方から警戒され、後にドイツ軍によって捕らえられました。
第一次世界大戦の「ヴェルダンの英雄」として知られるフィリップ・ペタンは、1856年にパ=ド=カレー県で生まれました。1940年のナチス・ドイツ侵攻による敗戦に乗じて内閣総理大臣に就任すると、即座にドイツとの休戦協定を締結しました。その後、第三共和政を廃止してヴィシー政権(フランス国)の国家元首となり、「祖国・労働・家族」を掲げてドイツへの協調・協力政策を推進しました。戦後は連合国への背信行動や不法協力の罪に問われ、死刑判決を受けた後に終身刑へ減刑され、離島でその生涯を閉じました。
第二次世界大戦下におけるフランス政治は、ナチス・ドイツの電撃戦による敗北を経て混乱を極めました。1940年に体制が崩壊すると、南部ヴィシーを拠点にナチスへ協調するヴィシー政権(フランス国)が樹立され、第三共和政は事実上崩壊しました。一方で、ロンドンへ逃れたシャルル・ド・ゴールらは「自由フランス」を立ち上げ、連合国側で抵抗運動を指導しました。国内のレジスタンス勢力とも連携を強めた自由フランスは、1944年のノルマンディー landings とパリ解放を経て臨時政府を樹立し、戦後の四大国として復権する礎を築きました。
アンソニー・イーデンは、第二次世界大戦前後のイギリス外交で中心的な役割を果たした政治家です。1930年代に外務大臣を務めましたが、チェンバレン首相の対独・対伊宥和政策に反対して1938年に辞任し、原則を貫く姿勢で知られました。第二次世界大戦開戦後、1940年にチャーチル内閣の外務大臣として復帰し、米ソとの大同盟の維持や米英ソ首脳会談(ヤルタ会談やポツダム会談)の準備に尽力しました。チャーチルの最側近として戦時外交を現場で仕切り、戦後の合意形成や国際連合の立ち上げにも深く寄与した、非常に優秀な外交家として評価されています。
クレメント・アトリーは、第二次世界大戦中にチャーチル挙国一致内閣の副首相を務めた労働党の党首です。カリスマ的なチャーチルが軍事戦略や外交に専念する一方、アトリーは内政や議会運営、内閣の調整を一手に引き受け、戦時体制下の国内政治を安定させました。戦局の最終局面である1945年の総選挙で労働党を大勝に導き、首相に就任しました。戦後は国民保健サービス(NHS)の創設や主要産業の国有化など Welfare State(福祉国家)の建設を推進し、インドの独立承認など大英帝国の解体と新たな国際秩序の構築を主導しました。
ハリファックス卿ことエドワード・ウッドは、第二次世界大戦前後のイギリス外交を支えた重要な政治家です。チェンバレン政権の外務大臣としてミュンヘン協定など宥和政策の中心にいましたが、1940年のチェンバレン辞任時には首相候補に挙がりつつもチャーチルにその座を譲りました。その後、1940年から1946年まで駐米大使を務め、アメリカの参戦促進やレンドリース法の交渉、連合国間の連携維持に尽力しました。宥和派としての過去を持ちながらも、戦時下における米英特殊関係の強固な基盤を作り上げ、連合国の勝利に外交面から大きく貢献しました。
アーネスト・ベヴィンは、有力な労働組合指導者からチャーチル挙国一致内閣の労働・国家奉仕相へと抜擢された政治家です。第二次世界大戦中、強力なリーダーシップで徴兵制や国民動員を徹底管理し、工場の生産性向上や炭鉱労働者(ベヴィン・ボーイズ)の確保など、戦時経済の屋台骨を支えました。労働者の権利を守りつつ戦時体制を支えた実績は高く評価され、戦後のアトリー内閣では外務大臣として就任しました。冷戦初期における対ソ強硬姿勢やNATO結成への布石、マーシャル・プランの受け入れ支援など、戦後西洋世界の安全保障構造の確立に大きな足跡を残しました。
ネヴィル・チェンバレンは、1937年から1940年までイギリス首相を務めた政治家です。ヒトラーの野心を抑止するため、1938年のミュンヘン協定に調印するなど宥和政策を推進し「我々の時代の平和」を訴えましたが、1939年のドイツによるポーランド侵攻により開戦を決断せざるを得なくなりました。第二次世界大戦開戦後、ノルウェー戦役での敗北を受けて議会からの不信任を突きつけられ、1940年5月に辞任しました。戦時下の指導力には欠けたものの、政権期に進めた防空体制の整備や空軍の強化は、その後のバトル・オブ・ブリテンでの勝利の基礎を築いたと評されています。
スタンリー・ボールドウィンは、第二次世界大戦前の1930年代に通算3度にわたりイギリス首相を務めた保守党の政治家です。彼は国内の安定や王室の危機(エドワード8世の退位問題)の収拾に成果を上げましたが、安全保障面ではナチス・ドイツの再軍備に対して軍備増強を躊躇し、宥和的な態度をとったことで後に強い批判を受けました。1937年に首相を退任しチェンバレンへ政権を譲りましたが、開戦後は対独抑止に失敗した「開戦責任者」のひとりとして世論の不満を一身に浴びることとなりました。しかし近年では、当時の不況下で急進的な軍備増強が困難であった現実的制約を踏まえた評価も見直されています。
第二次世界大戦期のイギリス政治は、政党の枠組みを超えた挙国一致内閣の結成と指導体制の変遷が大きな特徴です。1939年の開戦当初、チェンバレン首相は対独宥和政策の失敗や戦況の悪化から批判を浴び、1940年に退陣を余儀なくされました。後任となったウィンストン・チャーチルは挙国一致内閣を組織し、労働党や自由党を巻き込んだ結束を図りました。 Churchillの強いリーダーシップの下、ナチス・ドイツに対する徹底抗戦の意思を誇示し、国内の労働動員や戦時経済の管理を完遂しました。戦局が連合国優位に傾くと、戦後復興や社会保障の改革案構想が進み、1945年総選挙での労働党勝利へと繋がりました。
オーストリアの物理学者エルヴィン・シュレーディンガーは、第一次世界大戦の開戦に伴いオーストリア=ハンガリー帝国軍の砲兵将校として召集された。イゾンツォ戦線などの最前線に赴任し、危険と隣り合わせの状況下で砲兵部隊を指揮しながらも、物理学の専門書を読み進めて研究への意欲を維持した。戦火を生き延びた彼は、戦後に波動運動や量子力学の研究を本格化させ、1926年にシュレーディンガー方程式を発表。1933年にはノーベル物理学賞を受賞するに至る大飛躍を遂げた。
物理学者アルベルト・アインシュタインは、第一次世界大戦中の1915年に現代物理学の金字塔である「一般相対性理論」を完成させた。多くの科学者が軍事研究やナショナルな宣伝に協力する中、彼は一貫して熾烈な戦争に反対し、国際主義と平和主義を表明。ドイツの知識人による親戦声明「93人の宣言」に対して反論の声明に署名するなど、孤立を恐れず戦争回避を訴えた。戦火の中でも科学的探求を止めず、人類の時空概念を一変させる歴史的業績を成し遂げた。
オーストリア出身の物理学者リーゼ・マイトナーは、第一次世界大戦中にオーストリア軍の志願看護師として従軍し、東部戦線などの野戦病院でX線技師として傷病兵の治療を支援した。過酷な現場でX線撮影技術を駆使し、解剖学的な観察力を生かして多くの負傷兵救護に貢献した。復員後はベルリンのカイザー・ヴィルヘルム研究所に戻り、オットー・ハーンと共に放射性同位体プロトアクチニウムを発見。後に核分裂反応の理論的解明を成し遂げる基礎を、戦時の混迷の中でも築き上げた。